広島県 宮島🦌厳島神社と聖徳太子・ペルシャ人との深い関わりとは?

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日本三景の一つとなっている安芸の宮島は、太古から島そのものが神として崇められました。

厳島とも呼ばれる宮島には、1400年の歴史をもつ厳島神社があります。

1996年には、その素晴らしさが認められ世界遺産に登録されました。

そんな厳島神社に関する逸話があります。

広島県宮島・厳島神社と聖徳太子・ペルシャ人との深い関わりとは?

驚愕の事実!厳島神社と「ゾロアスター教」の意外な共通点とその深い関係

厳島神社とゾロアスター教一説によると、厳島神社とゾロアスター教には深い関わりがあるそうです。

ゾロアスター教は、西暦200年ごろに繁栄したササン朝ペルシャの国教のことです。

紀元前1400年~1200年頃に預言者ゾロアスターによって始められ、日本では「拝火教(はいかきょう)」として知られます。

「拝火」とは文字通り「火を神に見立てて祀る」と言ったことになります。




ゾロアスター教と厳島神社を結びつける4つの根拠

398d21b946279a70ee8e710b7098f0e2実は、このゾロアスター教と厳島神社を結びつける根拠が4つあります。

 厳島神社が北西を向いていて 水辺に建てられている

これは、イランに残るゾロアスター教の寺院の造りと同じだそうです。

 昔、厳島神社に大願寺の弁財天が祀られていた

厳島神社の今の社殿は平の清盛が建てたものですが、お宮としてはそれより古く、593年に建てられました。

ちょうど、推古天皇・聖徳太子の時代です。

現在は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神が祀られていますが、創建当初はもう1柱御祭神が祀られていたそうです。

それは、現在は大願寺で秘仏となっている「弁財天(べんざいてん)」です。

この弁財天の起源は、ペルシャ地方の神話に出てくるゾロアスター教の海の神様「アナーヒター」だと言われています。

 毎年元日に行われる舞楽の演目がペルシャ人にちなんでいること

厳島神社の高舞台では、毎年元日の日の出から3時間の間、舞楽「抜頭(ばとう)」が行われます。

抜頭とは、厳島神社の有名な舞楽であり、厳島神社に古くから伝わる中国風の唐面を装着して舞う舞楽です。

抜頭面これは厳島神社の神職に伝わる舞です。

舞楽は単に舞うだけではなく、物語があり、その内容を舞で表現します。

その物語とは「西域の胡人(ペルシャ人)が猛獣に父をかみ殺されたので、山に入りその猛獣を見つけて復讐をする」というものです。

この抜頭が異国人と思しきお面を付けて舞われます。

 平清盛はペルシャ人の血を引いていた可能性がある

厳島神社は、平清盛により現在の建築様式が確立されましたが奈良興福寺の「大乗院寺社雑事記」には、「外来人が営む蔵が京都三条坊門にある。彼らは外国との貿易などをしているが、そのことごとくは「”平”の性」を名乗っている」という記述があります。

すなわち、平清盛はペルシャ人の血をひいていた可能性が指摘されているのです。




えぇっ?!聖徳太子は間違いなくペルシャ人だった!?

聖徳太子はペルシャ人だった?実は上記の「抜頭の舞」は、渡来人であり聖徳太子の参謀であった「秦河勝(はたのかわかつ)」の子孫により舞われていたようです。

秦氏は京都や畿内(近畿地方)を本拠地にした豪族で、後に九州地方へも進出しています。

伏見稲荷大社を創建したとされる秦氏(秦伊呂具/はたのいろぐ)も同様に秦氏であり、秦氏は日本の歴史に大きく関与しています。

秦河勝は、秦氏のリーダー的存在で日本の歴史で言うところの弥生時代から古墳時代に(西暦200年初頭から中期)に朝鮮半島から日本へ渡ってきた渡来人であり、大陸の進んだ文化を当時の日本へ持ち込み、日本で大出世を果たした一族です。

当時の政治の中心にいた聖徳太子からも厚い信頼を得ていました。

古代からの書物をまとめた「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」によると、秦氏が渡来人であった証拠が記載されていることがわかります。

また、太子最古の記録「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」によると、太子の母親の名前は「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」とあります。

実は、この「はしひと」と言うのが、聖徳太子がペルシャ人であると言う説を実証へ導く回答の1つであり、一説によると「はしひと」というのは、ペルシャ人のことを「パルシーグ(パルシング)」と呼んでいた事に由来するといわれています。

他にも聖徳太子がペルシャ人であったとされる説があり、一番の有名所では「その身長は優に180cm以上ほどあった」と云われています。

当時の日本人の男性の平均身長が150cmから155cmであった時代に、明らかに不釣り合いな身長差が生まれており、この当時の人物としては飛び抜けて長身であったと思われます。

以上のことか聖徳太子の側近、そして母親までもペルシャ人であったと言う説も、軽視できない事実であると言わざるを得ません。

忘れてはならないのが、ここでの問題の争点は聖徳太子がペルシャ人であったかどうかではなく、ペルシャ人であったことが事実であるならば古代西洋の文化様式が、当時の日本文化の発展に大きく影響を与えていたと言う説が出てきます。

つまり、西洋と日本との直接的な関与があった可能性も捨てきれないといった解釈になります。

ここから導き出される答えとは、例えば当時の日本の建築様式などが代表的な答えとなります。

その代表的なものに聖徳太子自身が創建した法隆寺の建築様式にも着目する必要があり、西洋の建築様式が法隆寺の建築様式に投影されていたという証拠になり得ると言ったことになります。

ここまでで言えることは、古代の西洋と日本との間の直接的な関与が立証できた場合、これは歴史を揺るがす大発見とになるハズです。

終わりに・・

以上のように、厳島神社の端々にペルシャとの関わり合いの根拠が垣間見えます。

私たちには「日本史の登場人物は日本人である」という思い込みがあることが多く、平氏や聖徳太子が外国人であるとは思いもよらない人が多いのではないでしょうか。

このように一説とはいえ、ペルシャと厳島神社の深い関与の痕跡が明らかになるにつれ、厳島神社のみならず、日本史の見方も大きく変わってくると思います。

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