宮島🦌厳島神社「大国神社」【重要文化財】

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宮島・厳島神社「大国神社」【重要文化財】

宮島 厳島神社「摂社・大国神社」

建立年

  • 不明
  • 1467年から1572年(文正2年から元亀3年/室町時代)
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 妻入
  • 一重
屋根の造り

  • 檜皮葺(ひわだぶき/材質:ヒノキ)
大きさ

  • 桁行(横幅):三間(約6メートル)
  • 梁間(縦):四間(約8メートル)
重要文化財指定年月日

  • 1899年(明治32年)4月5日
御祭神

  • 大国主命
社格

  • 厳島神社・摂社

厳島神社・大国神社の読み方

大国神社は「おおくにじんじゃ・だいこくじんじゃ」と読みます。




厳島神社・大国神社の御祭神「大国主命」

大国神社の御祭神は「大国主命」であり、「おおくにのぬしのみこと」と読みます。

大国主命と言えば、七福神の「大黒さん」の名前で親しまれており、その実体は出雲大社にご鎮座されております縁結びの大神「大国主大神」です。

大国主命は、厳島神社の御祭神「宗像三女神(むなかたさんじょじん)」の1柱である「田霧姫命(たきりひめのみこと)」と「湍津姫命(たぎつひめのみこと)」の2柱の神様と夫婦となり子神を授かっています。

よって大国主命と厳島神社とは関わり合いの深い神様でもあります。

厳島神社・大国神社の歴史・由来

実は大国神社と呼称する神社は、厳島神社の境内以外にも「仙台、府中、大阪」など日本中に数社ありますが、厳島神社の摂社である大国神社との関連性は不明となっています。

この大国神社は室町時代、厳島神社の本殿へ「御供(お供え物)」を供進(お供え)するための場所である御供所(ごくしょ)でした。

室町時代、厳島神社の本殿へのお供え物はまず、本殿裏の陸地にかつて存在したとされる調理場所で調理された後、長橋を通って境内へ入り、一旦、大国神社へお供えしてから、最終的に厳島神社の本殿へ供進したと伝えられています。

元来、御供所として造営されていたことから、現在の大国神社の本殿には回廊に通じる通路が通っており、その奥に御祭神を安置する覆屋(おおいや/小さな社殿)が一段上がる形で設けられています。

一段上げる理由は御祭神を安置する本殿だけは海水に浸からないように、高潮の際の浸水を防ぐ対策であると考えられます。

厳島神社「大国神社」の名前の由来

実はこの大国神社は、別の名前があり、現在とは全く異なった名前が付されていたことが判明しています。

その名前とは、大国主大神の神仏習合の別称である「大黒天(大黒さま)」に因んだ名前で「大黒堂(だいこくどう)」と呼称されたそうです。

この事実は1537年(天文6年/戦国時代)の古文書に「厳島神社・大黒堂」として登場しており、つまり現在の大国神社とは名前が異なる事実が判明しています。

厳島神社・大黒堂

上記では「大黒堂」と言う名前が出てきて、不思議に思われた方もおられると思います。

それもそのハズです。

冷静に考えると神社の境内にお寺のお堂がある訳ですから。

厳島神社は古来、仏教との関わり合いが深い神社であり、厳島神社の本殿にて仏教形式の祭典として「読経(どきょう/お経を読む)」が行われていたと伝えられています。

また、大黒堂でお祀りされていた御祭神(御本尊)に関しては「大黒天(大黒さま)」と伝わっています。

「大黒天」とは七福神の1尊であり「打出の小槌」と「大きな福袋」を背負った仏様で、現在の大国神社の御祭神である「大国主命」の神仏習合時の別名でもあります。

厳島神社・大黒堂が現在の「大国神社」へと名前が変わった理由

大黒堂の名前は明治時代初頭に現在の「大国神社」へと名前が変更されています。

明治時代の初頭と言えば、明治政府によって「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」が発令されています。

すなわち大黒堂の名前の変更はおそらくこの神仏分離令の影響により、神と仏が分けて考えられたためだと考えられます

その際、御本尊である大黒天も神社形式の御祭神として「大国主命」に変えられています。




御供所に大黒天が祀られるようになった理由

そもそも御供所に大黒天が祀られるようになった理由を考えると少し困惑するところですが、困惑してしまう理由は現在の大黒天が「七福神」の一尊でもあり、「招福」に関するご利益が広く知られているからです。

招福は食べ物に直接関係がないので、これを考慮して大黒天と紐づけてしまうのには少々、難があります。

ただ、室町時代以降、上述した国土の神として知られている大国主大神(=大国さん)と名前が類似していることから同じ神様と見られるようになっています。つまり、「国土を創造した神=農耕の神=食物の神」としても知られるようになっています。

その証拠の1つとして、大黒天は米俵の上に乗って表現されている姿がほとんどです。

↑大黒天。米俵の上に乗って手に福小鎚を持っている。

厳島神社・大黒堂を「創建した人物」と「創建年」について

現在の厳島神社の社殿群の姿の礎を造ったのが、平家の総大将である「平清盛」です。

しかし、大黒堂が造営された当時の厳島神社の実質上の支配者は、安芸の国主であり中国の覇者である「毛利元就(もうりもとなり)」です。

1569年に毛利家の内部で謀反が起こっており、この時に謀反人が厳島神社の本殿へ逃げ込み、腹を切って息絶えたと言う事件が起こっています。

その際、厳島神社の本殿は鮮血で血の色に染まっており、元就は血で染まった本殿の穢れを祓うために1571年から1572年の間に本殿の建て替えを行っており、この時同時に境内の修繕も行っています。

以上のことから、大黒堂の正式な創建年は「不明」とされていますが、おそらく1571年から1572年の間の造営で、発願者は毛利元就ではないかと考えられます。

厳島神社・大国神社の場所(地図)

大国神社の場所は、厳島神社境内の「西廻廊」の延長上に位置しています。

厳島神社の境内で屋根がないもっとも開放的な場所となります。

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