原爆ドームの簡単な歴史と年表一覧

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広島の原爆ドームとは?

住所

  • 広島県広島市中区大手町1-10
見学可能時間

  • 24時間
入場料

  • 無料

広島県物産陳列館(広島県産業奨励館)

原爆ドームはもともと、「広島県物産陳列館」として開館し、被爆当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていました。

「原爆ドーム」という呼び名はもちろん被爆後についたもので、全焼したものの階段室のドーム形の屋根の骨組みが残っていたことから、「原爆ドーム」の名前が市民の間で広まり、1950年前後には定着しつつあったようです。

竣工年月日

  • 1915年(大正4年)4月5日
建立者

  • 広島県 ※1953年(昭和28年)に広島市へ譲渡
設計者

  • ヤン・レツル (チェコ出身の建築家)
広さ・大きさ

  • 庭園の面積:約500~600坪(約1653~1983㎡)
  • 建坪面積:310坪(約1025㎡)
  • ドームの先端までの高さ:約25m
建築様式

  • レンガ造り・モルタル仕上げ 
    ※一部鉄筋コンクリート・玄関部分石造り
  • 地上3階(一部5階)・一部地下1階
  • 内壁の大半は漆喰壁

建物の中心部分に中庭が配置されて吹き抜けになっていました。
建物自体の
大部分はたくさんの窓が設けられた3階建てで、今もドーム型の屋根の跡が見える建物の中央は5階建て・楕円形の階段室でした。

至近距離で被爆しながら全壊を免れた要因の1つは、窓が多く、爆風が窓から外に吹き抜けたためだと考えられています。




原爆ドームの歴史

1915年(大正4年)

広島県物産陳列館として竣工する

1921年(大正10年)

広島県立商品陳列所に改称、第4回全国菓子飴大品評会の会場となる

1933年(昭和8年)

広島県産業奨励館に改称される

1944年(昭和19年)

奨励館業務が廃止され、官公庁や統制組合の事務所に使用されるようになる

1945年(昭和20年)

8月6日の原爆投下により爆心地から北西約160mの距離で被爆、大破・全焼する

1949年(昭和24年)

8月6日に広島平和記念都市建設法が制定される

1955年(昭和30年)

広島平和記念公園(平和公園)が完成する

1966年(昭和41年)

広島市議会が原爆ドームを永久保存することを決議し、翌年には保存工事が完了する

1992年(平成4年)

広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択する

1993年(平成5年)

市民団体「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が結成され、署名活動が始まる

1994年(平成6年)

原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願が採択される

1995年(平成7年)

国の史跡に指定される

1996年(平成8年)

世界遺産に登録される

2006年(平成18年)

広島市が「平和記念施設保存・整備方針」を策定する




被爆前の原爆ドーム

大正時代の広島中心部の建物と言えば、木造の2階建てが主でした。

そこに誕生した、当時としては珍しいヨーロッパ風のデザインの「広島県物産陳列館」は、たちまち広島の名所の1つとなりました。

「広島県物産陳列館」は、県内外の物産の収集・陳列や、商工業に関する調査や相談、資料の提供などを業務としていましたが、会場を提供し展示会を開くことで、博物館や美術館としての役割も担っていました。

しかし、戦争が激化するにつれてもともとの産業振興のための業務や館内の展示は縮小され、ついには「内務省中国四国土木出張所」や「広島県地方木材株式会社」など、官公庁や統制組合の事務所として使用されるようになります。

そんな中、1945年8月6日の午前8時15分17秒、建物から160mほど離れた場所に、世界で初めてとなる原子爆弾が投下され、建物は全焼し、当時出勤していた30名余りの職員は全員亡くなりました。

一方で、建物の骨組みや壁の一部はかろうじて残り、現在まで「原爆ドーム」として保存されています。

被爆後の原爆ドーム

原爆ドームを取り壊すか保存するかの結論が出ないまま、被爆から数年が経過していましたが、1949年8月6日に「広島平和記念都市建設法」が制定されたことで、「広島平和記念公園」を整備しようという動きが本格化し、原爆ドームもひとまずは残されることになりました。

しかし、1960年代になると、壁に雑草が茂る、亀裂が入るなど傷みが進行し、小規模な崩落も相次いだことなどから、またもや取り壊すか保存するかの議論が活発になります。

市民の間でも、「見るたびに原爆投下の時のことを思い出して辛いので撤去してほしい」という声も強く、また、原爆ドームを管轄する広島市としても、保存・維持に多額の費用がかかることなどから、情勢は取り壊しの方向に傾きつつありました。

そんな時に、市内の高校生、楮山ヒロ子さんの日記がきっかけとなって原爆ドームを保存しようという運動が起こって議論の流れは一変し、1966年には広島市議会により永久保存が決議されることとなりました。

その後、広島市が全国で募金活動を行い、また、佐藤栄作総理大臣などの寄付もあって、保存のための工事にかかる費用を賄える金額が集まったそうです。

第1回の保存工事は1967年に行われ、その後も1989年~1990年、2002年~2003年、2015年~2016年と、現在までに計4回の工事が実施されています。

保存工事中の原爆ドーム(2015年)

原爆ドームの保存方法としては、「自然風化に任せて手を加えない」「別の建物で覆う」「資料館などに移設する」などの案が検討されてきましたが、
現在は、広島市で2006年に策定された「平和記念施設保存・整備方針」で、「必要な劣化対策を行い現状のまま保存する」という方法を、被爆100周年となる2045年までの基本的な方針と決定しています。

原爆ドームは、破壊された建物を、破壊された状態のまま保存するという難しい管理が要求される、珍しい事例なのです。

楮山ヒロ子さんの日記

楮山ヒロ子さんは、広島市内の高校生でした。

1歳の時に自宅で被爆し、16歳の時、被爆が原因と見られる白血病で亡くなりましたが、その亡くなる前年の日記に以下のような一文があることがわかりました。

「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」

産業奨励館とは、現在の原爆ドームのことです。

この日記に感銘を受けた地元の子どもたちの団体「広島折鶴の会」などが中心となって原爆ドーム保存に向けた活動を開始し、その活動は最終的には保存に消極的だった広島市議会を動かすまでの大きな動きに発展したのでした。

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