広島城の簡単な歴史と年表一覧

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広島城

別名

鯉城(りじょう)、在間城(ざいまじょう)、当麻城(たいまじょう)など

このうち「鯉城」に関しては広島カープの名前の由来にもなっています。

造営年(築城年)

🏯1591年(天正19年):本丸など主要な部分が完成、毛利輝元入場

🏯1593年(文禄2年):石垣完成

🏯1599年(慶長4年):落成

🏯1600年(慶長5年):二の丸造営

築城の詳しい時期については、正確にはわかっていない部分も多いようです。

再建年(天守閣)

🏯1957年(昭和32年)~1958年(昭和33年):天守閣外観復元

🏯1989年(平成元年)~1994年(平成6年):二の丸復元

造営時の城主

🏯毛利輝元、福島正則

築城様式(造り)

🏯輪郭式平城

敷地の広さ(創建当初)

🏯敷地の広さ:約90万㎡

🏯本丸:約37,700㎡

🏯二の丸:約3,500㎡

現在国の史跡に指定されている広島城跡の面積は、約11万8千㎡です。

90万㎡というのは、なんと東京ディズニーランドと、ユニバーサルスタジオジャパンの面積を足したくらいの広さです!




広島城・天守閣(大天守)

天守閣の建築様式(造り)

築城当初:木造・複合連結式望楼型五重五階、本瓦葺

現在:鉄骨鉄筋コンクリート造・望楼型五重五階(最上階のみ木造)、本瓦葺

天守閣の大きさ(高さ)

築城当初:約32.7m

現在:約26.6m

石垣(天守第)の下からの高さ(現在):約39m

日本に現存する天守閣で最大なのは、姫路城の約31.5mなので、当初の広島城の天守閣はそれよりも1mほど高かったことになります。
33mというのは、おおざっぱですが、11階建てのビルと同じくらいの高さです。

広島城・二の丸

太鼓櫓(右)と多聞櫓(左)
各櫓の建築様式(造り)

平櫓:木造・一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺

多聞櫓:木造・一重渡櫓、切妻造、本瓦葺

太鼓櫓:木造・二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺

各櫓の大きさ

平櫓:約12.4m×8.6m、高さ約7.8m

多聞櫓:約67.9m×4.9m、高さ約5.1m

太鼓櫓:約8.5m×7.8m、高さ約10.6m

別名「鯉城」について

広島城は、別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれます。

由来はよくわかっていませんが、城の堀に鯉がいることと関係があるわけではなく、一説には、城が建っている地域がかつて「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていたため、「己斐」が「鯉」に転じたとも言われています。

プロ野球の広島東洋カープの「カープ(carp)」とは「鯉」のことで、広島城の別名「鯉城」も、チーム名の由来となっているそうです。

ちなみに、「カープ」のチーム名のもう1つの由来として、鯉が縁起の良い出世魚だから、という点が挙げられます。

滝を上った鯉は龍になれるという中国の伝説から、鯉は縁起の良い出生魚とされているのです。

広島城の歴史と年表

安土桃山時代

1588年(天正16年)

6~7月:毛利輝元が初めて上洛し豊臣秀吉に謁見。聚楽第、大坂城などを訪れる

12月:毛利輝元が「五ケ(五箇)村」への築城をほぼ決定する

豊臣秀吉は、毛利輝元の勢力圏に「中国攻め(中国征伐)」などと呼ばれる戦を数年に渡りしかけていました。

しかし、1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が撃たれたことを聞くと、豊臣秀吉は毛利輝元と講和を結び、信長を撃った明智光秀を追討するために軍を撤収させたので、勝ち負けはつきませんでしたが、講和により、毛利輝元は豊臣秀吉の支配下の武将となりました。

毛利輝元は後に、1597年(慶長2年)に設けられたとされる「五大老」の1人となり、豊臣政権を支えました。

広島城は、この時に訪れた豊臣秀吉の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」を手本に築城されたとも考えられています。

1589年(天正17年)

4月:毛利輝元が「五ケ(五箇)」を「広島」と名付ける

7月:広島城の建造が始まる

※この年、現在確認できる限りでは初めて、「広島」という地名が史料上に登場しています。

1591年(天正19年)

閏1月頃:毛利輝元が広島城に入城

1592年(天正20年)

4月:豊臣秀吉が広島城を訪れる

毛利輝元が広島城に入城し、翌年豊臣秀吉が見に来た際には、本丸などの主要な部分はできていたものの、城全体としてはまだ完成していなかったようです。

1599年(慶長4年)

この年、竣工を祝う行事が行われたと伝えられる

1600年(慶長5年)

9月:関ヶ原の戦いで、毛利輝元が率いる西軍が敗北する

10月:毛利輝元が周防・長門二か国へ移され、安芸国・備後国には福島正則が移封されることになる

1601年(慶長6年)

3月:福島正則が広島城に入城する 




江戸時代

1617年(元和3年)

この年、台風による大洪水で三の丸まで浸水し、石垣や櫓、塀が破損する

1619年(元和5年)

6月:広島城の無断修築をきっかけに福島氏が減封・転封される

7月~8月:浅野長晟(ながあきら)が安芸と備後の一部に移封され、広島城に入城する。

広島城は1617年の台風による水害で修復が必要な状態であり、福島正則は幕府に対して事前に届けを出していましたが、正式な許可が下りる前に修復を行ったということで武家諸法度違反に問われました。

広島城跡の石垣には、幕府の指示によって福島正則が取り壊したとされる跡が残っています。

しかし、直接の理由はわかりませんが、石垣を取り壊した場所が幕府の指示通りではなかったり、他のいざこざもあったりして、時の将軍・徳川秀忠の怒りを買い、結局、福島氏の安芸国・備後国の領地は没収され、信濃国・越後国へ減封・転封(領地の削減と移動)されることとなりました。

代わって広島にやってきた浅野長晟は、豊臣政権の五奉行の1人、浅野長政の息子です。

その後江戸時代の終焉まで広島城の城主だった浅野氏もまた、地震で倒壊したり古くなって劣化した敷地内の建物の改修などを行いました。

1624年(寛永元年)

12月:大地震で石垣や塀などの多くが崩壊する

1758年(宝暦8年)

4月:「宝暦の大火」と呼ばれる大火事で城内の櫓4ヶ所が焼失する

1864年(元治元年)

8月:第一次長州戦争の際に幕府軍の本営が置かれる

長州戦争の際には幕府側の陣営でしたが、幕末の戊辰戦争の際には新政府側についていたため、広島城は築城から江戸時代を通して戦場になることはありませんでした。

明治時代

1871年(明治4年)

7月:廃藩置県により広島藩が広島県となり、広島城の本丸内に県庁が置かれる

10月:本丸内に鎮西鎮台第一分営が設置され、県庁は三の丸に移る

鎮西鎮台とは陸軍の舞台で、この後1873年(明治6年)には広島鎮台が正式に発足し、
その後第二次世界大戦時まで、広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられたり司令部が置かれたりしました。

1872年(明治5年)

4月:城内の門や櫓などの解体が始まる

明治時代に入ると全国の城郭建築の取り壊しや整理が行われ、城の敷地には陸軍の施設が建築されたり、県庁が置かれたりしました。

1873年(明治6年)

1月:本丸内に第五軍管区広島鎮台が設置される

3月:県庁が三の丸から城外の国泰寺の仮設庁舎に移設される

広島鎮台司令部の跡地
1909年(明治42年)

6月:外堀の埋め立て工事が始まる(~1911年)

広島城の外堀と西塔川という川を埋め立て、そこに路面電車が開業しました。




昭和時代

1931年(昭和6年)

1月:広島城天守閣が国宝に指定される

1945年(昭和20年)

8月:原子爆弾により、天守閣・各城門・櫓、城内の軍事施設が壊滅する

1951年(昭和26年)

3月:広島城跡内で「体育文化博覧会」が開催されるのに合わせ、木造の仮設天守閣が建設される(閉幕後取り壊し)

1953年(昭和28年)

3月:広島城跡が国の史跡に指定される

1957年(昭和32年)

10月:天守閣の復元工事が始まる(1958年竣工)

1958年(昭和33年)

4月:天守閣が「広島復興大博覧会」の第三会場となる(~5月末)

6月:天守閣が「広島城郷土館」として開館する

1945年(昭和20年)の原爆投下の影響で倒壊してから、広島城跡はしばらくそのままの状態でした。

原爆投下後の状況を残して後世に伝えるため再建に反対する声もありましたが、1951年(昭和26年)、広島国体の開催に合わせてひとまず仮設の木造の天守閣が建てられました。

この仮設天守閣は国体の閉幕後に取り壊されたものの、天守閣再建のムードは高まり、1958年(昭和33年)の広島市制70周年を記念して開催された「広島復興大博覧会」の目玉の1つとしてついに天守閣が再建され、天守閣の中に「広島城郷土館」が開館しました。

平成時代

1989年(平成元年)

4月:築城400年記念式典開催。天守閣内部の展示を改めリニューアルオープンする

6月:二の丸の補修と復元工事が始まる(~1994年)

1991年(平成3年)

9月:台風19号の影響で天守閣の鯱(しゃち)・屋根瓦が破損。翌年から補修工事が始まる

2001年(平成13年)

3月:芸予地震で天守閣の瓦が落ち、9月から修復工事が始まる

2015年(平成27年)

10月20日、天守閣に1,000万人目の入館者が来城!

広島城のINFO

広島城への交通アクセス

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