厳島神社はなぜ海の中に建てられたのか?海に沈まない理由とは?「建築様式・建築構造・特徴」について

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厳島神社は「海の中に鳥居がある」ということは有名ですが、なぜ海の中に鳥居が建てられたのでしょうか?

このように宮島・厳島神社の歴史には、知りたい謎が多く、またその事実を詳しく知る方は少ないと思います。

厳島神社は海上に建てられた世にも珍しい神社であり、はたまた神社の建築様式もかつての平安貴族の邸宅であった「寝殿造り」の様式で建てられているというから増して驚きです!

厳島神社の社殿は本当に海上に建てられていることから、様々な工夫が凝らされています。

以下では、この厳島神社の建築理由・建築様式や建築方法、その特徴についてご紹介しています。




世界的に評価されている厳島神社の「建築様式」と「建築の特徴」

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いったい、なぜ厳島神社は海に建てられたのか?

厳島神社は6世紀後半に、当時の宮島の一帯を治めていた豪族・「佐伯鞍職(さえき の くらもと)」の手により創建されたと伝わっています。

以来、現代に至るまで、厳島神社の神主は佐伯鞍職(さえき の くらもと)の子孫である佐伯氏が代々、神主と言う形で子々孫々、この宮島・厳島神社を守り続けています。

では、なぜ厳島神社は宮島の陸地部分ではなく、海辺に建てられたのでしょう?

それはこういった理由からです。

厳島神社のある宮島は、昔から島自体が「神」として信仰されてきました。

宮島全土に神が宿っていると考えられた為、この宮島の地の木を切ったり、土を削ったりすることによって、宮島の地を傷つけてはならないと考えていました。

その為、この土地を傷つけることを避けるために宮島の陸地部分ではなく、海に厳島神社の社殿や鳥居が建てられたと考えられています。

縄文海進(じょうもんかいしん/約2.1万年前/概ね旧石器時代)までは、島内に人が住んでいたとされ、たくさんの土器や祭祀に用いたとされる勾玉などが見つかっています。

縄文海進、いわゆる最終氷河期を迎えた頃から島内から人の姿がなくなり、すなわち無人島になったと推察されています。

その後、文献に見られるのが、593年頃(古墳時代〜飛鳥時代)のことです。

この当時、島を神として崇拝していた信仰が存在しており、現在の地御前神社の場所(廿日市市地御前五丁目)に遥拝所(ようはいじょ/神である島を拝む場所)が築かれ、この遥拝所の前に広がる浜から島へ一時的に渡る船を出していたようです。

一時的に船を出した理由はご察しの通り、この当時、島内に神を祀るための祠(ほこら)が築かれていたとされており、この祠の管理と祭祀を行う必要があったからです。

厳島神社は海の上に建っているが・・なぜ沈まない??

厳島神社は海の上に建っていますが、以下のような仕掛けが施されていることにより、沈没を防いでいます。

【理由その1】ん?!よく見れば床に隙間が開いている?なぜだ??

厳島神社の社殿群を繋ぐ平舞台や東回廊・西回廊の床の板は、わざと隙間をあけるようにして敷かれています。

これは、台風や大波の時にでも波を板の間に通すことで圧力を分散させ、倒壊を免れるための工夫です。

床板を隙間なく敷き詰めて設置していたとすれば、圧力をモロに受けてしまうこととなり、おそらくほぼ間違いなく回廊はもとより社殿がひっくり返っていることでしょう。

まさに先人が残した卓越した知恵の結晶と言えます。

【理由その2】社殿全体が浮くように造営されている!

厳島神社は社殿全体が浮くように造営されています。これは高波が押し寄せても倒壊させないために礎石の上に社殿を支える108本もの柱を置き、この礎石と柱で社殿および回廊を支えていることになります。

しかし、厳密には柱と礎石は固定されておらず、社殿の一部部分になっていますので、高波が来て社殿が浮いても再び元の形に戻れるように設計されています。

柱と礎石を固定してしまうと高波の衝撃をモロに受けてしまうことになり、簡単に倒壊してしまうからです。

なお、『厳島神社の社殿はなぜ沈むことはないのか?』・・については後述しています。

【理由その3】岩盤の上に建っている

冷静に考えてみれば厳島神社は「砂浜」の上に広大な社殿群が建っていることになります。「砂浜」といえばお分かりの通り、細かい砂粒の集合体ですので、重さに対しての耐性などありません。おそらく強い圧力が加われば簡単に埋もれていくでしょう。

しかし、厳島神社の社殿は創建以降、完全に海に水没したことは一度もありません。上述したように数年ごとにかろうじて回廊などがやや海水に浸かるくらいです。

これはどういうことかと言いますと、実は厳島神社の真下には岩盤層が存在していると考えられており、平安期に現在の社殿群を造営する際、その岩盤層の上にさらに礎石となる平石が積み上げられたと想定されています。

真下が岩盤層なのであれば、たとえその上が砂浜であったとしても、社殿が沈まないというのも納得ができるというものです。

岩盤層があるとされる理由は、弥山にゴロゴロとある巨大岩を例にとっても分かるように、宮島全体がクソほど大きな岩であると考えることができるからです。ウフ




厳島神社の社殿は高潮が来ても海に沈まない??

厳島神社を含めた宮島は、秋口(9月から10月頃)の満潮の時に潮位が最大になります。

この時、当然、社殿も無事で済むわけではなく一部が海水に飲まれてしまい、場合によっては潮が引くまで拝観が一時休止になることがあります。

ただし、厳島神社の回廊を含めた社殿群は美しいと呼べる景観を保持させた上で、海水で浸水しないように設計されています。

中でも特に本殿・幣殿・拝殿の周辺の床板は、他の箇所と比較して木材の幅1本分ほど高く上げられて造営されています。また、高欄も美しい景観が保てるギリギリの低位置で設置されています。

このような綿密で緻密な設計を平安時代の創建当時(再建時)に行っていたわけですから、当時の技術力の高さを改めて認識せざるを得ません。

まさに、この海(瀬戸内内海)をよく知る男たちの手によって造営された偉大な遺構と言えます。

本殿の内陣(玉殿がある神聖な区域)は平安期の創建(再建)以来、一度たりとも水没したことがない

上記では本殿は水没したことがないと言いましたが、それでも20年から30年おきに瀬戸内海を襲う巨大台風の際は高波が発生し、さすがの本殿も水没してしまうようです。

しかし、それでも御神体が安置される神聖な区域である「内陣=玉殿」だけは平安期に造営されて以来、約850年間一度たりとも水没したことがないとのことです。

実はこれには理由があり、この内陣の床のみ社殿群の中でも最大となる約1.5mも高く造られているからです。

これはすなわち、「内陣だけは絶対に水没させてはいけない!」と、いう清盛公の強い意志が感じ取れる箇所とも捉えることができ、当時、内陣の造営に携わった職人たちの技術力の高さにもっとも驚かされる箇所でもあります。

現在までの約850年間で最大の潮位を記録したのが1509年(永正6年/室町時代)8月に発生した高潮の時だそうですが、それでも階段約1段分を残して内陣の水没だけはかろうじて免れているようです。

これをたまたま運が良かったとは簡単に言えないものがあります。おそらく清盛公は平安期に厳島神社を造営する際、この海(瀬戸内海)のことをよく知る「地元漁師」、「地元住民」「職人」などから、数十、数百年前の過去まで遡って海や地形などの状況を細かく情報収集した後、ようやく社殿の造営に至ったことが想像につきます。

厳島神社の本殿および社殿群の大きさは日本一!!

神社における本殿の大きさ日本一は、古代の高層神殿の影響からか、島根県出雲大社の御本殿であるかのような印象があります。しかし、実はなんとぉぅっ!..オぅイぇ〜・・この厳島神社の御本殿こそが日本最大の大きさを誇るといえば驚かれますでしょうか?

ただし、厳島神社の本殿が日本最大というのは高さではなく、本殿の面積(広さ)が日本最大になります。これは海上に造営されているという立地を鑑みればトンデモナイ事実です!

厳島神社の本殿は、海側から見たのが正面として横幅が23.7m、奥行きが11.5mとなり、これは出雲大社・本殿の約2倍弱の広さになります。

しかし一方で回廊を含めた社殿面積を対称とした場合、これは日本史上、類をみない空前絶後の大きさであり、平安時代に清盛公が創建してから現在に至るまで日本史上最大の面積を誇ります。

海上という地形的に難がある場所に造営されながら、このような比類なき大きさの社殿群を建設した理由は、ひとえに、清盛公の厳島の神々への篤い崇敬心に比例するものが投影された結果であると捉えることができます。ウフ

回廊が吹き放し

通例であれば、例えば寺院の場合の回廊は、外側部分には壁が設けられて合間合間に緑色の連子窓(れんじまど)が設けられる場合がほとんどです。

このような回廊の外側に向けて設けられる「壁」や「連子窓」の意味合いとは、入り口方向となる外界からの穢れ(けがれ)を遮断するために設けられるものであり、神仏習合時代の名残でもあります。

したがって、これは現在の神社にも同じことが言えます。

しかし厳島神社の回廊を例にとった場合、回廊には壁というものがなく、床上に高欄(こうらん/手スリ)があるのみで、すべて吹き放ちになっています。

これは神社やお寺としてではなく、あくまでも貴族の邸宅である寝殿造りがモチーフとされて社殿が造営されたからであり、当時の清盛公の権勢や清盛公の新しいもの好きで好奇心旺盛な性格が滲み出ている箇所でもあります。

厳島神社を海側正面から見ると左右非対称になっている?!

厳島神社へ参拝する際、東側の回廊から入ってそのまま順序通りに進んで拝観することになりますので、あまり気づかない方も多いと思いますが、厳島神社の社殿群を海側から見ると、なんとぉぅっ!..オぅイぇ〜・・本殿を中心として左右で微妙に長さが異なります。

例えば本殿のド真ん中に空想で線を引っぱったとすると左右で微妙に長さが異なることが分かるハズです。この長さは、左側(東回廊側)で5間、右側(西回廊側)で4間となり、約1間分(約2メートルから3メートル)ほど左右で長さが異なっています。

創建当初は左右が均等の長さだった?!

このように厳島神社の社殿群が左右非対称なのには理由があり、そのもっともな理由となるのが、本殿内部の中心部に設置されている「玉殿(ぎょくでん)」と呼ばれる「社殿」もしくは「覆屋(おおいや)」があるためです。

玉殿とは、寺院でいうところの「厨子(ずし)」に等しい、豪華で小さな社殿のことです。

この玉殿の中に御神体がお祀りされていますが、このような玉殿が設けられた理由は、かつて神仏習合の時代であった頃、お寺の仏像の神社バージョンともいえる「神像(しんぞう)」が安置されていたためです。

厳島神社にはこの玉殿が6棟(6つ)存在し、その中央に社殿群および本殿の中心軸となる柱が立てられていますが、実はこの柱が鎌倉時代に撤去されてしまったために左右非対称になっています。

柱が撤去された理由は、設けられた玉殿の数が偶数だからです。

通例では、本殿内部に設けられる「玉殿」もしくは「覆屋」は奇数で配置して、その中心に柱を立てて左右対称にすることが原則となります。

しかし、清盛公が創建した頃は6つの玉殿に加えて1つ分の空(から)の玉殿を形だけ配置して7つとし、さらに両側に1つずつの玉殿のスペースを設けて合計で9間という奇数に仕立てた伝えられています。(玉殿6つ+空のスペース3つ=9つ)

イメージ図

○○○◯○○○○

(清盛公創建時)

○○○○○○○○
◯◯

(鎌倉時代再建時)

これが鎌倉時代の再建の際、6つの玉殿の中心部分に2面分の幣殿(へいでん=拝殿と本殿をつなぐ廊下部分)が前方に右側寄せで造られたために、正面から見た時に本殿が右側に寄っているように見えます。しかしこれは実際に右側に寄って左右非対称になっています。




寝殿造りの社殿

世界的に評価されている建築様式厳島神社が世界遺産に認定された理由の1つに、「造営当初(平安時代の再建当初)の”寝殿造り”という様式が忠実に守られている」ということが挙げられます。

「寝殿造り」とは、平安時代の貴族の住宅の建築様式のことであり、具体的には主人が居住する寝殿と呼ばれる建物を中心として、その東西に対屋(たいのや)という付属的な建物を配置し、それらを通路(回廊)で結んだ左右対称形の建物です。その他、寝殿の前面には「舞」や「儀式」の場となる「庭」や「池」も設けられました。

この寝殿造りの様式を神社建築に取り入れたのが平清盛であり、完成したのが厳島神社です。

清盛公が造った厳島神社は、瀬戸内海を「池」、寝殿を「拝殿」に見立てた見事な発想で、平安貴族の雅さをよく表現しています。ほぉっほぉっほぉっ…麻呂でおぢゃるゾヨ..ホぉ〜っ!!!

厳島神社の社殿の主要部分は平安時代に造営されていますが、その後、天災や火災などにより修理が繰り替えされ、何度か手が加えられています。

貴族の邸宅「寝殿造り」であった根拠!「本殿の建築様式」

本殿にも特徴的な造りが見られ、殿(母屋)となる部分の前後に庇(ひさし)が配され、その前後の各庇には「縋破風(すがるはふ)」と呼ばれる様式が用いられています。

「すがる破風」は主に寝殿造りで用いられた建築様式であることから、まず、現在の厳島神社が平清盛公による創建(再建)である証拠の1つとなります。

また、神社の社殿は、母屋部分から屋根が伸びて向拝(庇/ひさし)を兼ねる「流造り(ながれづくり)」の様式が多いのですが、この厳島神社の本殿はに関しては前後の両方向に屋根が伸びる「両流造り(りょうながれづくり)」で造営されています。

↑厳島神社本殿。前後双方に屋根がニョキッと延びる。

ちなみに向拝とは「こうはい」と読み、これは手前に伸びた屋根のことで、庇(ひさし)とも言い換えることができます。

「庇」とは、母屋の雨よけに配される小さな屋根のことです。

現在の本社本殿は1571年(元亀2年)、客神社は1241年(仁治2年)の建築とされており、細部にはそれぞれの時代の特色が見られます。

しかし全般的には造営当初の様式が今も保たれており、平安時代末期の建築様式を知る上では貴重な遺産であり、世界的な評価を受けています。

厳島神社の謎の1つ「数字の”8”に因んだ建築様式」

厳島神社の謎の1つとされているのが、なんと!数字の「8」に基づいて社殿や回廊が造営されている!?ということです。

例えば、社殿群を取り巻く床下の板の枚数は、1間(約2mから2.4m)に8枚もの板が敷かれています。

そして、この床が連なる回廊は約108間の長さがあり、回廊の屋根を支える柱の数もなんと!「108本」あると言います。

また大正時代に奉納された燈籠(とうろう)の数も108基あり、やはり数字の「8」に因んでいます。

まさに八八はっちゃんの呪いと言えます。ギャー!!・・ハチぃ〜!!忠犬〜

厳島神社の社殿が正面から見たとき「左に寄っている」??

厳島神社の社殿群全体を海側から見た時、社殿群が若干、左側に寄せられて造営されていることが分かります。

この理由は平安時代に現在の社殿群が創建(再建)された時に、左側付近の地層が岩盤層で硬かった、もしくは「鏡の池」なる稀有な池を造ったためだからと考えられています。

そして平安期の造営に際して、現在の厳島神社の本殿を中心とした周辺一帯に大規模な土木工事が実施されているのをあまり知られていません。

平安時代の厳島神社造営に際して執り行われた工事内容

  • 宮島の紅葉で有名な「紅葉谷公園」を流れる「御手洗川(みたらしがわ)」の流路を本殿を迂回させる形で変更させた
  • 現在の鏡の池朝座屋)周辺は陸地だったので、土砂を撤去して上述、御手洗川の流路変更ための土砂に充てがった
  • 社殿造営に際して、地層の調査と浜辺全体に岩盤の埋め込み

現在の厳島神社が建つ場所は、平安時代以前もしくは清盛公が造営した頃には陸地であったと考えられています。この理由は現在の厳島神社の場所が御手洗川と白糸川の河口周辺域となり、弥山山頂からの土砂が流れ着いて土砂が山積みになっていたと考えられているからです。

そして清盛公が現在の寝殿造りの社殿群を造営するに際して特にコダわったのが”池”です。

平安時代の貴族の邸宅は、寝殿造りが基本とされていましたが、その大きな特徴として寝殿部分を向かい見て右奥に泉があってそれが川となって正面の池へ注ぎ落ちるというのが雅(みやび)の基本とされていました。ホンに雅でオジャルのぅ〜…ホッホッホ

すなわち、寝殿造りには「池」が必ず存在し、清盛公はその「池」を「瀬戸内海」に例えていますが、それだけでは面白みがない。

そこで御手洗川の流路を変更した上で御手洗川の伏流水を利用し、岩盤層の上を通過させて地上に湧き出させるといった方法を考案しています。

この方法を用いることによって「鏡の池」なる古今東西、前代未聞とも言える、干潮時にのみに見ることのできる全くもってけしからん的な、世に2つとない稀有な池を誕生させています。

ちなみに、他に社殿が左側(東側)に寄せられて造営された理由としては、あらゆる自然災害を想定して回避できること前提条件にされたからだとも考えられています。

現に現在の厳島神社は平安期の創建以降、約850年間一度も大きな災害に見舞われたことがありません。

これは現在の厳島神社の地形をよく知る者と練達した職人たちの手により造営された証拠となるものです。




厳島神社の海上の大鳥居の謎

厳島神社のシンボルはなんと言っても、「海上の大鳥居」です。

なぜ、わざわざ海上に??目立つため??・・など、疑問も出てきますが、目立つためだけに・・というのは間違いです。

実は、厳島神社の大鳥居も、ちゃんとした理由があって海上に建てられたのです。

古来、宮島全体が神が宿る御神体であるとされており、神が宿る神聖な島の上には建物が建てられないということで、海の上にこの大鳥居が建てられたと伝えられています。

厳島神社の大鳥居の大きさ

厳島神社の大鳥居の大きさ厳島神社の大鳥居の大きさは以下の通りです。

  • 高さは約16.6メートル
  • 柱の周囲は約10メートル
  • 柱間は約11メートル
  • 鳥居全体の重さは約60トン

厳島神社の大鳥居の材質(使われている木材)と使用された理由

厳島神社の大鳥居の「2本の主柱」に使用されている木材は「樹齢500年以上」で「根元の直径が10m以上」の「楠木(クスの木)」です。

厳島神社の大鳥居に使用されている木材は「楠木(クスの木)」です。

「楠木(クスの木)」が大鳥居に使用されたのには、以下のような理由があります。

  • 腐りにくい
  • 虫がつきにくい
  • 木の質が強靭  ・・など

現在、厳島神社では大鳥居を存続させるため、楠の育成を進めています。具体的には、平成3年に襲来した台風19号は厳島神社の社殿群に大きな被害をもたらしています。

そこで厳島神社を現在の姿のまま保護し、永続させようと地元宮島の有志が参集し、「宮島千年委員会」と設立しています。

「宮島千年委員会」は、まず、有事の際もすぐに社殿を修理できるように、まずは島内の「包ヶ浦(つつみがうら)」に約0.8ヘクタールの敷地を確保し、この敷地に「悠久の森」と名付け、現在、楠を植林を行っています。

目標は約400年後に幹の直径が約6m級の楠を育てあげることだそうです。

包ヶ浦の場所(地図)

ちなみに「0.8ヘクタール」の広さを例えると、概ねサッカーコート1面分と比例します。

主柱を支える4本の木は「杉の木」

一方、2本の主柱を支える4本の袖柱に使用されている木材は「杉」です。

「楠」と「杉」をいう2つの木材を使い分けることによって、海水に浸かっても雨風に晒されても簡単に倒壊しないような設計がされています。

袖柱に杉の木が使用されている理由

袖柱に杉の木が使用されている理由とは何より「水に強い」ことです。

他にも、杉の特徴として「重量が軽い」ということが挙げられます。

楠の木ほどの強度はありませんが、袖柱は4本ありますので、強度よりも「水に強い」ことが優先されたということになるのでしょう。




ヒノキの植林も行われている

厳島神社の社殿群は国宝指定や世界遺産指定を受けている関係で、まるまる建て替えは行えず、敢えて従来からの社殿群の容姿を維持したまま「修理・補修」という形式を採用しています。

しかし、社殿の屋根部分に用いる檜皮(ひわだ)は老朽化が顕著であることから広範囲に及ぶ葺き替えが必要になります。

このための檜皮や補修のための用材を採取する必要があることから、島内の「杉之浦」にある宮島国有林にも「世界文化遺産貢献の森林」と位置付けて、半ば厳島神社存続のための森林として用材を確保することを環境省より認められています。

杉之浦の場所(地図)

まだあった!!信じられないほどの厳島神社「大鳥居の謎」

まだあった!!信じられないほどの厳島神社の大鳥居の謎 (2)厳島神社のこの大鳥居には、まだ謎が隠されていたのです。

どのようなことかと言いますと、実はこの大鳥居の柱、単純に海底にササって埋まっているワケではないのです。

よく大鳥居をご覧ください。

大鳥居の巨大な2本の各柱を支えるために、それぞれ途中から袖柱が2本増えて、合計4本の足で2本の主柱を支えているように見えます。

しかし、これら合計6本足の柱が地中に完全に埋まっていないとすれば驚きますでしょうか?

実は、この6本足の柱は、単純に「浮いている」のです。

「浮いている」状態で、大波が来ても、台風が来ても、地震が来ても!この大鳥居はビクともしません。

いったい、なぜなのでしょうか?

この秘密を一言で言ってしまえば・・なんと!!

厳島神社の大鳥居は、鳥居自体の重みだけで立っているというのです!

これは、聞けば誰もが驚く驚愕の真実です!

しかし、これは本当のことなのです。

ちなみに、この厳島神社の大鳥居のように、2本の主柱の前後に袖柱(控柱・稚児柱)を建て、主柱と袖柱を貫で繋いで合計6本足となっている形式の鳥居を、「両部鳥居(りょうぶとりい)」と言います。

大鳥居が満潮時の海中でも立っていられる理由

大鳥居が満潮時の海中でも立っていられる理由大鳥居の1番上の部材は単純な木造ではなく、部材の中に重りが入っています。

大鳥居の1番上の「笠木/島木(1番上の横木)」の部分をよくご覧になってください。

通常の鳥居は、笠木が1番上に備え付けられ、その下に島木が備え付けれます。

しかし、厳島神社の鳥居は少し造りが異なり、笠木と島木が合わさって「箱型」になっているのです。

「箱型」と言うことは、中に何かを入れることができるということです。

実は、この島木の箱に「人間の頭くらいの玉石」を「約7トン」も入れて重しにしているそうです。

足は倒れないよう6本足(柱)になっており、各柱の足元の海底の地盤は「松材の杭(くい)」を打って強化されています。

厳島神社の大鳥居の大鳥居の足元の「底部分」の秘密

また、柱と屋根が交差する部分には、特殊な造りのクサビが施されています。

そのおかげで、柱や屋根の動き、ひずみなどを自然に吸収・修正出来るようになっています。

そして、なんと!

このような造り方を800年も前に実践していたというのですから、驚きです。

厳島神社の大鳥居についての詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

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