広島城(天守閣・二の丸、広島城跡)の「歴史・見どころ・建築様式(造り)・など」
こちらのページでは、広島城の歴史と、天守閣と二の丸に復元された櫓を中心に、国の史跡に指定されている広島城跡の見どころをご紹介します。
【広島城】のコロナ感染拡大防止対策について
広島城におけるコロナ対策についての公式発表は以下の通りです。
【重要】広島城天守閣及び二の丸の2月8日(月)からの全面開館について
広島城天守閣及び二の丸を2月8日から開館しますが、入館に際して以下のことについて皆様のご理解とご協力お願いします。
・マスクの着用、入館時の手指消毒・咳エチケットの徹底をお願いします。
・入館時の検温にご協力ください。
・咳や発熱などの体調不良がある方は、入館をお控えください。
・見学時は、前後1m程度の間隔を保つようにしてください。
・混雑状況によっては、入場制限を行う場合があります。
・体験コーナーなど一部ご利用できない箇所があります。
・日曜日と祝日に実施予定の展示ガイドは、新型コロナウィルス感染予防及び拡散防止の観点から当面休止します。
・県外からのお客様は、各都道府県の移動自粛要請にあわせてご来館いただくようお願いします。
なお、100名城スタンプは、第一層のミュージアムショップ前に設置しています。
詳細は公式サイトでご確認ください。
項・一覧
広島城の基本データ(造営年、面積など)
別名
- 鯉城(りじょう)、在間城(ざいまじょう)、当麻城(たいまじょう)など
このうち「鯉城」に関しては広島カープの名前の由来にもなっています。
造営年(築城年)
- 1591年(天正19年):本丸など主要な部分が完成、毛利輝元入場
- 1593年(文禄2年):石垣完成
- 1599年(慶長4年):落成
- 1600年(慶長5年):二の丸造営
築城の詳しい時期については、正確にはわかっていない部分も多いようです。
再建年(天守閣)
- 1957年(昭和32年)~1958年(昭和33年):天守閣外観復元
- 1989年(平成元年)~1994年(平成6年):二の丸復元
造営時の城主
- 毛利輝元、福島正則
築城様式(造り)
- 輪郭式平城
敷地の広さ(創建当初)
- 敷地の広さ:約90万㎡
- 本丸:約37,700㎡
- 二の丸:約3,500㎡
現在国の史跡に指定されている広島城跡の面積は、約11万8千㎡です。
90万㎡というのは、なんと東京ディズニーランドと、ユニバーサルスタジオジャパンの面積を足したくらいの広さです!
広島城・天守閣(大天守)
天守閣の建築様式(造り)
- 築城当初:木造・複合連結式望楼型五重五階、本瓦葺
- 現在:鉄骨鉄筋コンクリート造・望楼型五重五階(最上階のみ木造)、本瓦葺
天守閣の大きさ(高さ)
- 築城当初:約32.7m
- 現在:約26.6m
- 石垣(天守第)の下からの高さ(現在):約39m
日本に現存する天守閣で最大なのは、姫路城の約31.5mなので、当初の広島城の天守閣はそれよりも1mほど高かったことになります。
33mというのは、おおざっぱですが、11階建てのビルと同じくらいの高さです。
広島城・二の丸

各櫓の建築様式(造り)
- 平櫓:木造・一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺
- 多聞櫓:木造・一重渡櫓、切妻造、本瓦葺
- 太鼓櫓:木造・二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺
各櫓の大きさ
- 平櫓:約12.4m×8.6m、高さ約7.8m
- 多聞櫓:約67.9m×4.9m、高さ約5.1m
- 太鼓櫓:約8.5m×7.8m、高さ約10.6m
別名「鯉城」について
広島城は、別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれます。
由来はよくわかっていませんが、城の堀に鯉がいることと関係があるわけではなく、一説には、城が建っている地域がかつて「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていたため、「己斐」が「鯉」に転じたとも言われています。
プロ野球の広島東洋カープの「カープ(carp)」とは「鯉」のことで、広島城の別名「鯉城」も、チーム名の由来となっているそうです。
ちなみに、「カープ」のチーム名のもう1つの由来として、鯉が縁起の良い出世魚だから、という点が挙げられます。
滝を上った鯉は龍になれるという中国の伝説から、鯉は縁起の良い出生魚とされているのです。
広島城の歴史
安土桃山時代
1588年(天正16年)
- 6~7月:毛利輝元が初めて上洛し豊臣秀吉に謁見。聚楽第、大坂城などを訪れる
- 12月:毛利輝元が「五ケ(五箇)村」への築城をほぼ決定する
豊臣秀吉は、毛利輝元の勢力圏に「中国攻め(中国征伐)」などと呼ばれる戦を数年に渡りしかけていました。
しかし、1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が撃たれたことを聞くと、豊臣秀吉は毛利輝元と講和を結び、信長を撃った明智光秀を追討するために軍を撤収させたので、勝ち負けはつきませんでしたが、講和により、毛利輝元は豊臣秀吉の支配下の武将となりました。
毛利輝元は後に、1597年(慶長2年)に設けられたとされる「五大老」の1人となり、豊臣政権を支えました。
広島城は、この時に訪れた豊臣秀吉の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」を手本に築城されたとも考えられています。
1589年(天正17年)
- 4月:毛利輝元が「五ケ(五箇)」を「広島」と名付ける
- 7月:広島城の建造が始まる
※この年、現在確認できる限りでは初めて、「広島」という地名が史料上に登場しています。
1591年(天正19年)
- 閏1月頃:毛利輝元が広島城に入城
1592年(天正20年)
- 4月:豊臣秀吉が広島城を訪れる
毛利輝元が広島城に入城し、翌年豊臣秀吉が見に来た際には、本丸などの主要な部分はできていたものの、城全体としてはまだ完成していなかったようです。
1599年(慶長4年)
- この年、竣工を祝う行事が行われたと伝えられる
1600年(慶長5年)
- 9月:関ヶ原の戦いで、毛利輝元が率いる西軍が敗北する
- 10月:毛利輝元が周防・長門二か国へ移され、安芸国・備後国には福島正則が移封されることになる
1601年(慶長6年)
- 3月:福島正則が広島城に入城する
江戸時代
1617年(元和3年)
- この年、台風による大洪水で三の丸まで浸水し、石垣や櫓、塀が破損する
1619年(元和5年)
- 6月:広島城の無断修築をきっかけに福島氏が減封・転封される
- 7月~8月:浅野長晟(ながあきら)が安芸と備後の一部に移封され、広島城に入城する。
広島城は1617年の台風による水害で修復が必要な状態であり、福島正則は幕府に対して事前に届けを出していましたが、正式な許可が下りる前に修復を行ったということで武家諸法度違反に問われました。
広島城跡の石垣には、幕府の指示によって福島正則が取り壊したとされる跡が残っています。
しかし、直接の理由はわかりませんが、石垣を取り壊した場所が幕府の指示通りではなかったり、他のいざこざもあったりして、時の将軍・徳川秀忠の怒りを買い、結局、福島氏の安芸国・備後国の領地は没収され、信濃国・越後国へ減封・転封(領地の削減と移動)されることとなりました。
代わって広島にやってきた浅野長晟は、豊臣政権の五奉行の1人、浅野長政の息子です。
その後江戸時代の終焉まで広島城の城主だった浅野氏もまた、地震で倒壊したり古くなって劣化した敷地内の建物の改修などを行いました。
1624年(寛永元年)
- 12月:大地震で石垣や塀などの多くが崩壊する
1758年(宝暦8年)
- 4月:「宝暦の大火」と呼ばれる大火事で城内の櫓4ヶ所が焼失する
1864年(元治元年)
- 8月:第一次長州戦争の際に幕府軍の本営が置かれる
長州戦争の際には幕府側の陣営でしたが、幕末の戊辰戦争の際には新政府側についていたため、広島城は築城から江戸時代を通して戦場になることはありませんでした。
明治時代以降
1871年(明治4年)
- 7月:廃藩置県により広島藩が広島県となり、広島城の本丸内に県庁が置かれる
- 10月:本丸内に鎮西鎮台第一分営が設置され、県庁は三の丸に移る
鎮西鎮台とは陸軍の舞台で、この後1873年(明治6年)には広島鎮台が正式に発足し、
その後第二次世界大戦時まで、広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられたり司令部が置かれたりしました。
1872年(明治5年)
- 4月:城内の門や櫓などの解体が始まる
明治時代に入ると全国の城郭建築の取り壊しや整理が行われ、城の敷地には陸軍の施設が建築されたり、県庁が置かれたりしました。
1873年(明治6年)
- 1月:本丸内に第五軍管区広島鎮台が設置される
- 3月:県庁が三の丸から城外の国泰寺の仮設庁舎に移設される

1909年(明治42年)
- 6月:外堀の埋め立て工事が始まる(~1911年)
広島城の外堀と西塔川という川を埋め立て、そこに路面電車が開業しました。
1931年(昭和6年)
- 1月:広島城天守閣が国宝に指定される
1945年(昭和20年)
- 8月:原子爆弾により、天守閣・各城門・櫓、城内の軍事施設が壊滅する
1951年(昭和26年)
- 3月:広島城跡内で「体育文化博覧会」が開催されるのに合わせ、木造の仮設天守閣が建設される(閉幕後取り壊し)
1953年(昭和28年)
- 3月:広島城跡が国の史跡に指定される
1957年(昭和32年)
- 10月:天守閣の復元工事が始まる(1958年竣工)
1958年(昭和33年)
- 4月:天守閣が「広島復興大博覧会」の第三会場となる(~5月末)
- 6月:天守閣が「広島城郷土館」として開館する
1945年(昭和20年)の原爆投下の影響で倒壊してから、広島城跡はしばらくそのままの状態でした。
原爆投下後の状況を残して後世に伝えるため再建に反対する声もありましたが、1951年(昭和26年)、広島国体の開催に合わせてひとまず仮設の木造の天守閣が建てられました。
この仮設天守閣は国体の閉幕後に取り壊されたものの、天守閣再建のムードは高まり、1958年(昭和33年)の広島市制70周年を記念して開催された「広島復興大博覧会」の目玉の1つとしてついに天守閣が再建され、天守閣の中に「広島城郷土館」が開館しました。
1989年(平成元年)
- 4月:築城400年記念式典開催。天守閣内部の展示を改めリニューアルオープンする
- 6月:二の丸の補修と復元工事が始まる(~1994年)
1991年(平成3年)
- 9月:台風19号の影響で天守閣の鯱(しゃち)・屋根瓦が破損。翌年から補修工事が始まる
2001年(平成13年)
- 3月:芸予地震で天守閣の瓦が落ち、9月から修復工事が始まる
2015年(平成27年)
- 10月20日、天守閣に1,000万人目の入館者が来城!
広島城の構造(築城様式)と城跡の見どころ
築城様式「輪郭式平城」
「輪郭式」とは:
「輪郭式(りんかくしき)」の城とは、本丸を取り囲むように二の丸、三の丸などが配置されている様式の城のことで、広島城のような平城に多い構造です。
広島城の場合、二の丸は本丸から離れた小島のようになっていますが、周囲に堀がめぐらされているのがわかります。
現在残っている堀は内堀で、かつては三の丸や外堀もありました。
「平城」とは:
「平城(ひらじろ)」とは、その名の通り平地に建てられた城です。
戦が絶えなかった戦国時代、城と言えば「山城(やまじろ)」や「平山城」が主流でしたが、戦乱が収まってくると、水上交通の便が良い平地に、広い敷地を持つ「平城」が築かれるようになりました。
アクセスが良い場所だけに防御面では山城には劣りますが、堀や石垣、見張りと攻撃のための櫓(やぐら)などで敷地を取り囲んで内部を守り、敷地内には城主の住居や権力のシンボルである天守閣などが建てられました。
広島城には、かつて88もの櫓があったと言われています。
平城のメリットは、城と一体化した形で城下町を築けるので周辺を統治しやすく、城と城下町を領土の政治や経済の中心として機能させることができる点にあります。
広島城は、川の中州を埋め立てるという大掛かりな工事の末、完成しました。
国内の平城の中でも稀に見る広大な敷地を持ち、名古屋城・岡山城と並んで「三大平城」の1つに数えられています。
広島城跡の見どころ
広島城跡は大きく分けて「本丸(上段・下段)」と「二の丸」の2つのエリアで構成されています。
敷地内にかつてあった建造物は、取り壊されたり原爆の影響で倒壊したりして、残念ながら築城当時のまま残っているものはありませんが、城跡北側の石垣からは、江戸時代の見て取れます。
また、城跡内には原爆の影響を受けながらも生き延びた樹木が「被爆樹木」として残され、広島に原爆が投下された歴史を今に伝えています。
広島城を構成していた多くの建物は戦後も再建されず、現在復元されているのは、本丸の天守閣(大天守)と、二の丸の表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓のみとなっています。
広島城跡マップPDFはこちらです!
広島城跡の見どころ
- 本丸:天守閣
- 二の丸:表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓
- 被災樹木:クロガネモチ(本丸)、ユーカリ(二の丸)、マルバヤナギ(本丸・中御門後の手前)
広島城(天守閣・二の丸)の建築様式(造り)の特徴
天守閣
築城当初の天守閣は、5階建ての「大天守」と、3階建ての「南小天守」、「東小天守」を廊下で繋いだものでしたが、小天守は明治時代に取り壊されました。
現在は大天守のみが外観復元という形で再建されています。
天守閣を北西側から見上げると、角に突き出た部分が見えますが、これは「石落とし」と呼ばれるものです。
石落としは、攻めてきた敵に対して石などを落として城を守るために造られた窓でした。
天守閣は広島城の北西側にあるので、城の敷地を守るため、北西側の外壁に石落としが設けられたのです。

二の丸

- 表御門(おもてごもん):二の丸の出入り口。「櫓門(やぐらもん)」と呼ばれる、門の上に櫓を設けた様式の門。
- 平櫓(ひらやぐら):1階建ての隅櫓(すみやぐら)。表御門と多聞櫓を繋ぐ。
- 多聞櫓(たもんやぐら):平櫓と太鼓櫓を繋ぐ渡櫓(わたりやぐら)。約68mの長さがある。
- 太鼓櫓(たいこやぐら):2階建ての隅櫓。
既にご説明しましたが、多くの平城の二の丸が本丸の囲むように築かれるのに対し、広島城の二の丸は本丸前の小さな区画として整備されていおり、近世城郭としては珍しい配置となっています。
この区画は「馬出(うまだし)」と呼ばれる、城の出入り口を守ったり、出陣の際の拠点となる場所でした。
堀の外側からは内側が見えづらい一方で本丸からは見えやすい設計となっており、防衛機能を考慮しての設計と考えられています。
3つの櫓は繋がっており、現在は中に入って見学することができます。
太鼓櫓には、かつては2階部分に時を告げる太鼓が設置されていましたが、今は1階に移され、誰でも自由に叩くことができます。
広島城のヒーロー「安芸ひろしま武将隊」もお見逃しなく!
広島城観光振興事業の一環として、広島城を広くPRするべく、戦国時代から450年の時を超えて結成されたのが、「安芸ひろしま武将隊」です。
広島城では、毎週末、武将のパフォーマンスを見学できます。
演舞の後には、あこがれのあの武将と、記念撮影だってできちゃいます!
安芸ひろしま武将隊のメンバー
安芸ひろしま武将隊のメンバーをご紹介します。
なお、練り歩きや演舞には全員出ているとは限りませんので、気になる方は事前に出陣スケジュールをご確認ください。
- 毛利元就(毛利家第12代当主)
- 毛利輝元(広島城初代城主)
- 吉川元春(元就の次男、吉川家当主)
- 小早川隆景(元就の三男、小早川家当主)
- 忍び衆:杉原盛重、世鬼政親、世鬼政時、世鬼政矩
武将隊に会えるのはいつ?(日程と場所)
練り歩き
- 日程:毎週土曜日・祝日13時~15時
- 場所:広島城天守閣から二の丸にかけて
演舞
- 日程:毎週日曜日、13時30分~・15時~
- 場所:広島城二の丸
雨天時は中止となる場合があります。
また、武将隊が外部のイベントに参加するため、広島城を留守にする場合もあります。
練り歩き・演舞のスケジュールおよび出陣する武将のラインナップは、ホームページからご確認ください。
安芸ひろしま武将隊に関するお問い合わせ先
- ホームページ:http://hiroshima-samurai.jp/
新登場!広島城遊覧船
2017年秋、広島城のお堀に遊覧船が就航し、広島城を見上げながら、ゆっくり、のんびり、お堀をほぼ一周することができます。
船内では広島城おもてなし隊「恋水姫(こいみずき)」のメンバーがガイド役を務め、天守閣に関する豆知識や、お堀の魚について、写真撮影ポイントなども解説・案内してもらえますよ。
今までとは違った角度から広島城を見られ、新たな発見があるかもしれません。
広島城が初めての方も、行き慣れた方も、ぜひぜひ、試してみてください!
広島城遊覧船の料金・運行スケジュール・所要時間
料金
- 大人1,400円、子ども(小中学生)700円、未就学児300円
※ライフジャケット使用料、損害保険料込み
※5日前までの予約でお弁当を購入できます(1個1,000円、お茶付き)
運行スケジュール
運行スケジュールは目安です。
下記の時間以外でも希望に合わせてもらえますので、予約の際にご相談ください。
- 朝:10時~11時、10分おき
- 昼:12時~12時20分・13時40分~14時、10分おき
- 夕:14時20分~14時40分・15時~15時20分、10分おき
定休日
- 不定休
※冬期(12月~3月上旬)の平日は、予約がある日のみの運行となります。
※雨天運休となる場合があります。
※春、夏、秋には、それぞれ「お花見遊覧船」、「納涼遊覧船」、「紅葉遊覧船」として特別イベント船が運行されます。
所要時間
- 約35分
広島城遊覧船は予約が必要?
乗船希望日の5日前までであれば、広島城遊覧船のホームページから予約できます。
当日でも、空きがあれば乗船できます。
広島城遊覧船の運行ルート(地図)
画像引用元:広島城遊覧船
広島城遊覧船の発券所・のりばは、二の丸側の入口「表御門」前にあります。
遊覧船は、お堀をほぼ一周し、元の場所に戻ってきます。
広島城遊覧船のお問い合わせ先
特定非営利活動法人クリーンディーシークラブ
- 電話番号:090-2804-7185/090-7374-7262
- ホームページ:http://hiroshima-yuransen.jp/index.html
広島城の住所・お問い合わせ先
- 住所:広島県広島市中区基町21-1
- 電話番号:082-221-7512
おわりに・・
天守閣や二の丸の展示、開館時間、入館料や、広島城へのアクセスなどについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
広島城(天守閣・二の丸)の「営業時間・入館料・割引・アクセス・駐車場・見どころなど」
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