宮島・厳島神社「天神社」【重要文化財】
創建年
- 1556年(弘治2年/室町時代)
再建年
- 1945年(昭和20年)
「本殿」の建築様式(造り)
- 入母屋造
- 妻入
- 背面庇付
- 一重
「手前廊下」の建築様式(造り)
- 切妻造
- 一重
屋根の造り
- 檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ屋根)
大きさ(本殿)
- 桁行三間(横幅:約6m)
- 梁間三間(奥行:約6m)
大きさ(手前廊下)
- 桁行四間(奥行:約8m)
- 梁間一間(横幅:約2m)
重要文化財指定年月日
- 1899年(明治32年)4月5日
御祭神
- 菅原道真
社格
- 厳島神社・摂社
寄進者(造営者)
- 毛利隆元
宮島・厳島神社「天神社」の読み方
「天神社」は「てんじんしゃ」と読みます。
「天神社」の別名
創建当初は「連歌堂(れんかどう)」と呼ばれていたようですが、時代を経る過程で「天満宮(てんまんぐう)」とも呼称されています。
宮島・厳島神社「天神社」の歴史
厳島神社の天神社は1556年(弘治2年)に毛利隆元が寄進し造営された社です。
かつては「連歌堂(れんかどう)」と呼称されており、明治初頭まで連歌の会が結成され、ここで歌会が催されていたようです。
連歌とは「五・七・五」で代表される短歌の読み出しの句と、読み終わりの句である「七・七」を組み合わせた歌のことを言います。俳句の起源とも云われています。
まさに連歌を詠み親しむに相応しい素朴な社殿の造りで、朱塗りの光り輝く厳島神社の社殿の中にあって、唯一、素木造りの社殿が特徴的です。
ただし、この建物が連歌を興じる場所であったということは、御神体を安置した本殿が内部に別に存在することになり、事実、本殿が別にあります。
その天神社の本殿は、殿舎の奥に覆屋(おおいや)が設けられ、その中に御神体が祀られて本殿とされています。
1945年(昭和20年)の台風で屋根が倒壊!
すなわち、現存する殿舎は毛利隆元が造営した頃の部分とそれ以降の時代で修繕されてきた部分とが混在した殿舎となります。
台風が過ぎ去った後の再建(修繕)工事では、戦国時代に建てられた時の3本の柱を残して、新たに柱が新調されて屋根が載せられています。
現在みることのできる殿舎の大半は毛利隆元の寄進によって造営された戦国時代(室町時代)のものです。
宮島・厳島神社「天神社」の御祭神
天神社の御祭神は学問の神様である「菅原道真(すがわらのみちざね)」です。
菅原道真を祀る神社は日本には非常に多く、神社の境内でよく見かけることがあります。
一般的に菅原道真を祀る神社の総本社としては、「福岡の太宰府天満宮」や「京都の北野天満宮」の名前が挙がります。
このように菅原道真を祀る神社の数は現在では日本全国に約4000社が現存しているようです。
菅原道真を祀る神社が多い理由
ここで疑問が出てくるのですが、何故、菅原道真が日本中の神社でお祀りされているのでしょうか?
実はこれには古から語り継がれるとんでもない理由があったからなのです。
その理由とは、西暦900年代の醍醐天皇の時代まで遡ります。
時の天皇であった醍醐天皇は臣下の言うことを信じてしまい、都に居を構えていた菅原道真の位を下げて九州へ左遷してしまうのです。
その2年後、道真はこの世を去ってしまいます。
道真が去った後、都では不吉なことが立て続けに起こりました。
まず、醍醐天皇の周りの有力な臣下が次々と病に倒れて落命し、最後には醍醐天皇とその息子までもが病にかかり落命してしまいます。
これを「道真と祟り」と恐れた朝廷は、すぐさま道真の怒りを静めるために日本全国に道真を祀る社を築いたのです。
年月を経るごとに社の数は増えて行き、不思議と災いは消えて行ったことから「道真による祟り」と信じられ、一時期は日本全国で道真を祀った社の数が1万を超えたそうです。
現在では、その半分にも満たない数しか現存していませんが、ここ厳島神社の境内にある天神社も、その内の1社であると言うこということになります。
厳島神社・天神社の場所(地図)
厳島神社・天神社は境内の西側、大国神社の付近に位置します。ウフ
天神社への行き方
天神社は大国神社の縁側通路を通行して行くことができます。この通路は途中で1本道の廊下になって本殿前まで延びています。
⬆️大国神社の縁側通路を進むと写真のような天神社への入口となる廊下が見える
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