【厳島神社の 大鳥居⛩の秘密】 建築構造や歴史年表(建てた人や扁額の文字or小銭の賽銭問題)を…覚えたぃ❓

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厳島神社の大鳥居は、厳島神社の社殿の前に広がる「玉御池(たまみいけ)」と呼称される入江と外海との境目に、厳島神社の威容を示すかのごとくそびえ立っています。

そして厳島神社や宮島をイメージした時に、まず、頭に思い浮かぶのが、やはりこの「朱色の大鳥居」です。

古来、別名で「朱の大鳥居(あけのおおとりい)」とも呼ばれており、この厳島神社だけではなく、宮島の「象徴=シンボル」とも言えます。

以下では厳島神社・大鳥居の秘密として歴史(年表)、建築方法、大きさ(高さ)の他、ちょっと変わったお賽銭の奉納方法や本当の意味についてもご紹介しています。

宮島・厳島神社「大鳥居」【重要文化財】

造営年(創建年)

  • 不明
  • 推定:1166年(仁安元年)〜1168年(仁安3年)頃※平安時代
再建年

下掲(後述)、歴史表を素敵に参照💘

サイズ(大きさ)

  • 高さ:約16.6m(主柱の高さ約13.4m)
  • 棟(大棟・笠木)の長さ:約24.2m
  • 柱間:10.9m
  • 2本の主柱周りの長さ:約9.9m
  • 総重量:約60t
  • 扁額(へんがく):およそ畳3枚分
使用されている木材

  • クスノキ(2本の主柱)
  • 杉(主柱を支える4本の足)

※2019年(令和元年)6月17日〜の修理により、屋根が26年ぶりに檜皮葺へ葺き替えられる予定

大鳥居の形(型)

  • 木造枠指鳥居(両部鳥居)
発願者(造営者)

  • 不明
  • 推定:平清盛




厳島神社の大鳥居は平安時代に考案された「超・最新型の大鳥居」!!

厳島神社の大鳥居は一般的には平清盛公が造営したものと認知されていますが、実際のところ確証には至らず、ひょっとすると創建当初から存在したとも考えられています。

ただ、平清盛公が平安時代に厳島神社を現在の寝殿造りの殿舎へ造り替えた際、同時に造営された(もしくは造り変えられた)鳥居であり、一般的には清盛公自身が採用した「平安時代の最新型の鳥居」と伝わっています。

具体的には「2本の主柱の前後に袖柱(控え柱・稚児柱)を立て、主柱と袖柱を貫(ぬき=横木)で繋いで合計6本足となっている形式」の鳥居です。

そして、この鳥居の形式を「両部鳥居(りょうぶとりい)」と呼称し、平清盛公による厳島神社再建の時期と同じ頃に考案された形式の鳥居になります。

そんなことから一説では、清盛公自身が新たな厳島神社造営に際して、決意を新たに考案した鳥居だとも云われます。

ちなみに両部鳥居の「両部」の言葉の由来とは、密教において「金剛界」と「胎蔵界」の”両部”を示したものだと云われ、今日に至っては神仏習合の名残だとも云われます。

なお、この厳島神社の大鳥居は、木造鳥居としての大きさは日本最大であり、「日本三大鳥居」もしくは「日本三大木造鳥居」の一角に数えられ、これら三大鳥居群の中でも当然、主翼格を担う鳥居になります。

日本三大木造鳥居

  1. 奈良・春日大社の大鳥居(一の鳥居)(重要文化財)
  2. 福井県敦賀の気比神宮の大鳥居(重要文化財)
  3. 宮島厳島神社「大鳥居」(重要文化財)
日本三大鳥居

  1. 奈良県吉野の金峯山寺の大鳥居(重要文化財)
  2. 大阪四天王寺の大鳥居(重要文化財)
  3. 宮島厳島神社「大鳥居」(重要文化財)

厳島神社の大鳥居の歴史

創建年は本当に平安時代なのか??

すでに上述したように厳島神社の大鳥居は平安時代に平清盛公によって再建(創建)された折、同時に造営されていると考えられています。

ただし、現在見ることのできる大鳥居の姿は清盛公の時代から存在するものではなく、少し残念ですが1875年(明治8年)7月に再建されたものになります。(着工は明治7年10月)

それでもおよそ140年以上が経過していることになります。

現在の鳥居は8代目!

現在の大鳥居はなんと!8代目だということですから、平安時代に初めて造立されてから現在までに7回も造り替えられているということになります。

えぇっ?!かつて厳島神社の大鳥居は「白色」だった?!

創建当初の大鳥居は朱色の鳥居でしたが、なぁんと!厳島神社の鳥居が白色だった時期あります。

その時期とは「明治初頭から後半」にかけての約30年間です。

これには理由があり、明治初頭に明治政府から発令された「神仏分離令」によって、仏教と神社の区分けがされました。

その際、この朱色の大鳥居は仏教色が強いと言うことで、明治政府の命令で白色に変えられてしまうことになります。

白色とは、”白く塗った”という意味ではなく、彩色を施さない「素木(白木)造り」のことです。

白色に変えられた理由は単純に次のような理由になります。

  • 朱塗りの鳥居は仏教の影響が色濃いのでNG
  • 白木ならば神社建築の伝統にのっとっているので許可

前身となる「素木造り」の大鳥居は、特別保護建造物として1909年(明治42年)から19011年(明治45年)まで実施された修理を経て、ようやく元の朱色に戻されています。

このように鳥居の歴史だけ見ても、人間が歩む歴史というのは常に動乱があると言えますね。オホ

時代によって若干、色が異なっていた??

現在の大鳥居の朱塗りは創建当初と比較すると若干、色合いが異なると云われています。

この理由は現在の大鳥居には「鉛丹(えんたん/酸化した鉛)」が使用され、白木になる以前の江戸時代では、弁柄(べんがら/酸化した鉄)が用いられていたからです。いずれも濃い赤色を発色します。

↑現在の大鳥居の色「鉛丹の色(オレンジ色に近い)」
↑江戸時代の大鳥居の色「ベンガラの色(朱色と言える)」

弁柄塗りは、現在の鉛丹塗りと比較すると赤色の発色が強いので、江戸時代の大鳥居はもう少し赤みが強かったのではないかと思われます。

明治時代

厳島神社のこの大鳥居は1899年(明治32年)に国の特別保護建造物として指定を受けている関係で、1909年(明治42年)より約2年間、大修理が実施されています。

この年に上述したような白色の鳥居(素木をそのまま使用した鳥居)から→朱色に塗り替えが行われています。さらに屋根の葺き替え工事も同時並行で執り行われています。




大正時代

大正14年には柱脚に鉄筋コンクリートを巻きつける工事(鉄筋根巻き補強)が執り行われていますが、昭和25年に検査をしたところ、コンクリート補強が逆に裏目に出て海虫の蝕害(しょくがい)を増進させる結果を生むことになります。

このため、後述する昭和25年に各柱を部分的に切り取って根継ぎを施し、柱の塗装の塗り替えや、屋根の葺き替え工事も行なっています。

昭和時代

1950年(昭和25年)には初の試みとなる「根継ぎ」が行われる!

1950年(昭和25年)には、大鳥居すべてを交換するのではなく、脚元の腐食や損傷が著しい部分だけを切り取って交換する「根継ぎ補修」が実施されています。(根継ぎに関しては後述)

このため現在では合成樹脂を厚めに塗ってコーティングを行い、なんとか腐食を抑えています。

また、これが後述する「賽銭(小銭)を柱に挟んではいけない」の理由でもあります。

1965年(昭和40年)

1965年(昭和40年)には全体の塗装の塗り替えと、扁額(へんがく)の修理が執り行われています。

1972年(昭和47年)

1972年(昭和47年)にも、昭和40年には全体の塗装の塗り替えと屋根の修理工事が実施されています。

1983年(昭和58年)

1983年(昭和58年)にも、昭和40年には全体の塗装の塗り替えと屋根の修理工事が実施されています。

1991年(平成3年)

1991年(平成3年)になると台風19号の被害により、屋根の葺き替えや塗装の塗り直し、根元まわりの蝕害対策のため、樹脂コーティングが行われています。

2012年(平成24年)

突然の強風により、銅板が飛散し、急遽、屋根の修理が実施されています。

2016年(平成28年)

準備工事として西南袖柱の樹脂コーティングが執り行われています。

2019年(令和元年)の工事で屋根が檜皮葺へ

2019年(令和元年)6月17日〜の修理により、大鳥居の屋根が26年ぶりに檜皮葺へ葺き替えられる予定です。

2019年(令和元年)8月には工事中の大鳥居に成り代わって20分の1サイズの大鳥居が、新しく新設される「観光施設」内にて展示される。

2019年(令和元年)令和元年6月より開始された大鳥居修理工事が、令和4年12月に完工を素敵に迎え、無事に竣工。

大鳥居の歴史(年表)

できごと
1166年(仁安元年)

1168年(仁安3年)
大鳥居が造られる
1286年(弘安9年) 大鳥居が再建(大修理)される
1325年(正中2年) 大鳥居が強風により倒れる
1371年(応安4年) 大鳥居が再建される
1547年(天文16年) 当時、安芸国を支配した戦国大名「大内義隆」によって大鳥居が再建される
できごと
1561年(永禄4年) 毛利元就・毛利輝元親子が大鳥居を再建
1716年(享保元年) 大鳥居が倒れる
1739年(元文4年) 安芸広島藩の5代藩主「浅野吉長」により
大鳥居再建
1776年(安永5年) 大鳥居に雷が落ちて焼失
1801年(享和元年) 安芸広島藩の8代藩主「浅野斉賢」により
大鳥居再建される
1850年(嘉永3年) 大鳥居が強風により倒壊する
1875年(明治8年) 大鳥居が再建される
できごと
1882年(明治15年) 袖柱4本の根継ぎ実施(4本とも楠材使用)
1909年(明治42年) 朱色に塗装
1926年(大正15年) 柱脚に鉄筋コンクリートを巻きつける
1950年(昭和25年) 脚元の補修(根継ぎ)、屋根の葺き替え、再塗装
1965年(昭和40年) 再塗装、扁額の修理
1972年(昭和47年) 再塗装、屋根の修理
できごと
1983年(昭和58年) 再塗装、屋根の修理
1991年(平成3年) 台風19号の被害により、再塗装(樹脂コーティング)、屋根の修理、根継ぎ補修
2012年(平成24年) 強風により屋根上の銅板が飛散したので緊急屋根修理
2016年(平成28年) 西側袖柱の再塗装(樹脂コーティング)
2019年
(平成31年/令和元年)
6月
屋根の葺替、脚元の修理、全体塗装
2022年(令和四年)12月
大鳥居の修理終了し、無事に竣工




厳島神社の大鳥居の建築様式・建築構造の秘密!

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厳島神社の境内「玉御池」から沖合約200mの位置に建てられた厳島神社の大鳥居は、他の神社の鳥居とは明らかに違う建築構造をしています。

まず、通常の鳥居であれば「柱が2本」あり、それぞれの柱となっている木が地中深くに埋まっています。

しかし、厳島神社の鳥居は「足が2本ではなく合計6本」もあります。

そしてその6本の柱で鳥居全体を支えているから、水の動きが激しい海中でも忽然と直立していられるのかと思われがちです・・が!なんとぉぅ!実は地中には埋まっていないのですぅ!プぅ

これはいったいどういうことなのか?

厳島神社の大鳥居は、鳥居自体の重さで立っているだけで、満潮の時や波が荒い時には浮くこともあるということです。

掘立式にせず、あえて浮かす理由は、海底の地面に柱を埋め込んでしまうと、海風や高波があった際、圧力を逃すことなく鳥居全体で受けてしまうことになり、倒壊する可能性が高まるからです。(おそらく簡単に倒壊してしまいます)

よって現在の大鳥居は地面に柱を埋めずに、倒壊を防ぐ目的で鳥居の最上部である「笠木(島木)」の部分に重石(重し)を入れて押さえつけているだけになります。これが浮く理由です。

厳島神社の大鳥居の足元の「底部分」の秘密

柱の足元の底部分には、「花崗岩(かこうがん)」が敷かれ、その下の「捨てコンクリート(地盤の補強部分)」に「千本杭の工法」と言う建築方法が用いられています。

厳島神社の大鳥居の大鳥居の足元の「底部分」の秘密千本杭の工法」とは「杭の工法」のことで、45cmから60cmの「松杭(まつぐい)」と呼ばれれる松の木を用いた杭が打ち込まれています。

各柱には、松杭の数が30本~100本ほど打ち込まれています。

ちなみにこれは余談ですが、日本の花崗岩(かこうがん)の産地は「宮島」と言っても過言ではないほど、宮島で採石できます。

理由は単純で、なんと!宮島全体が花崗岩で出来ている島だからです。

実際に厳島神社の後方に位置する「弥山(みせん)」へ登山すると花崗岩が湧き出ているかの如く、そこらじゅうゴロゴロしています。

この花崗岩を加工してキレイ♪キレイ〜♪したものが、お墓に用いられることの多い「御影石(みかげいし)」になります。

御影石は簡単に割れず、型崩れしない石として知られている石で、「耐久度がある石」として有名です。

なお、弥山には「奇石(きせき)」と呼ばれる、かなりイビツな形をした巨石がゴロゴロしています。

これらの巨石は隕石だとも云われ、太古の時代は宇宙人が住んでいたなどの様々な俗説が飛び交っているようですが、実際のところは花崗岩であり、それなりの由緒を持った巨石たちです。

厳島神社へ訪れた際は是非!弥山へも登山してみてください。

弥山の奇石・一覧は以下の別ページにてご紹介しています。

関連記事: 宮島・弥山の「くぐり岩」と「岩(巨石)」一覧

大鳥居が満潮時の海中でも立っていられる理由と「島木・笠木」に隠された秘密!

大鳥居の1番上の部材は単純な木造ではなく、部材の中に重石(重り)が入っています。

大鳥居の1番上の「笠木/島木(1番上の横木)」の部分をよくご覧になってください。

通常の鳥居は、笠木が1番上に備え付けられ、その下に島木が備え付けれます。

しかし、厳島神社の鳥居は少し造りが異なり、笠木と島木が合わさって「箱型」になっているのです。

「箱型」と言うことは、中に何かを入れることができるということです。

実は、この「笠木(島木)の箱」に「人間の頭くらいの玉石」を「約7トン」も入れて重しにしているそうです。

また、柱と屋根が交差する部分には、特殊な造りのクサビが施されています。

そのおかげで柱や屋根の微々たる動きや、ひずみなどを自然に吸収・修正出来るようになっています。

そして、なんと!

このような造り方を800年も前に実践していたというのですから驚きです。

えぇっ?!創建当初の大鳥居には重石(重し)がなかった?!

実は、笠木の中の重石(重し)は清盛公による平安時代の造営当初には存在せず、時代を経る過程で置かれたものだと考えられています。

重石が置かれなかった理由は、現在のように笠木部分と島木部分が箱型ではなく、通常の鳥居と同様に単なる1本の巨木の横木だったからです。

つまり、重量のある巨木を1本の横木として用いるだけで、鳥居が浮いてくるのを抑えられたというワケです。

ではいったいなぜ笠木と島木が一体化されて箱型になったのか?・・という疑問が出てきますが、この理由は平安時代の頃のような巨木が見つからなかったからだと推察されています。

このため笠木部分と島木部分を箱型にして、中に石を詰めることで巨木を使用した時と同じ重量にしているというワケです。




厳島神社の大鳥居の材質(使われている木材)と使用された理由

この大鳥居は、海に立っていることから干潮時以外は常に海に浸かっていることになります。

木造の鳥居が海に浸かっていますので、海に浸かっている部分は当然、他の部位と比較して腐食の進行速度が早く進みます。

そこでこの大鳥居には「根継ぎ(ねつぎ)」と呼ばれる技法が用いられています。

「根継ぎ」とは、言葉からも察することができるように、海に浸かって腐食してきた部分、すなわち足元の部分だけを切断して、別木を接ぎあてることです。

根継ぎされている証拠は、実際に大鳥居の足元に行って目視すれば、真横にスーっと、線が入っているのが分かります。この線が根継ぎされた箇所です。

↑根継ぎされた部分。真横に線が入り前後で色が異なるのが視認できる。

主柱2本は楠(クスノキ)が使用されている!

厳島神社の大鳥居の「2本の主柱」に使用されている木材は「樹齢500年以上」で「根元の直径が10m以上」の「楠木(クスの木)」です。

厳島神社の大鳥居に使用されている木材は「楠木(クスの木)」です。

主柱にクスノキの木が使用されている理由

「クスノキ」が鳥居の材料に選ばれている理由としては次のよう利点が述べられます。

  • 他の木材よりも重量がある
  • 腐食しにくい
  • 虫がつきにくい
  • 木の質が強靭 ..etc

ただし、上記では述べていませんが、厳島神社の大鳥居にクスノキが用いられているもっともな理由となるのが、次のような事由です。

  • クスノキはそれほど環境を選ばず早く育つ
  • 育ちが早いので巨木が多く育つ

厳島神社の大鳥居に使用されているクスノキの産地

  • 東主柱:宮崎県児湯郡(こゆぐん)岡富村(おかとみむら)※現在の西都市
  • 西主柱:香川県丸亀市/宮島・亀居山(かめいさん)
  • 袖柱(そでばしら)4本:宮島・亀居山
  • 袖貫(そでぬき):宮島・亀居山
  • 島木・笠置:宮島・亀居山

西側の主柱のみ楠を鉄帯金物で2ヶ所固定して根継ぎしています。

根継ぎ部分(クスノキ)
  • 社殿から向かって右側(東側)の主柱が福岡県久留米市
  • 社殿から向かって左側(西側)の主柱が佐賀県佐賀市

現在の日本には太古の時代のような原生林がなく、巨木という巨木がありません。そんな理由から根継ぎするためだけの木を探すのですら困難な状況です。

海上に立つクスノキの耐用年数はおおむね80年と言われますので、1875年に再建されたということは1955年頃が限界耐用年数ということになり、とっくに年限が過ぎています。

そこで1950年(昭和25年)にすべてを交換するのではなく、足元の腐食や損傷が著しい部分だけを切り取って交換する「根継ぎ」が実施されています。

主柱を支える4本の木(袖柱)は「杉の木」

一方、2本のクスノキの主柱を支える4本の袖柱に使用されている木材は「杉(すぎ)」です。

「楠」と「杉」をいう2つの木材を使い分けることによって、海水に浸かっても雨風に晒されても簡単に倒壊しないような設計がされています。

実は厳島神社の大鳥居は元来、明神鳥居型の鳥居で造営される予定だったようですが、海上に鳥居を立てるので2本足の鳥居では耐久度が低いことと、清盛公自身の新しいモノ好きだった性格が合わさって、このような特殊な形状の鳥居が採用されたと考えられています。

明神鳥居

このように2本の主柱に対して、さらに4本の袖柱(控え柱)を据えた理由は、海水に浸かった2本の主柱だけだと耐用年数として、おおむね20年しか持たないからです。

これを6本足にした場合、耐用年数が60年も延長され、約80年間は持ちます。これが袖柱を据えた理由です。

袖柱に杉の木が使用されている理由

袖柱に杉の木が使用されている理由とは何より「耐水性がある=水に強い」ことです。

ただし、杉の特徴もしくはデメリットというべきでしょうか「重量が軽い」ということも挙げられます。

楠の木ほどの強度はありませんが袖柱は4本ありますので、強度よりも「水に強い」ことが優先されたということになるのでしょう。




厳島神社の大鳥居の秘密「裏表で異なる扁額(へんがく)の文字」

大鳥居を間近で観るとその大きさを実感できるハズですが、鳥居が大きいので必然的に鳥居に飾られる「扁額(へんがく=鳥居の上部真ん中の看板)」も大きいサイズとなり、なんとぉぅっ!畳3枚分もの大きさがあります。

この扁額には金色で文字が書かれていますが、「海側」と「社殿側」で書かれている文字が異なるのをご存知でしたか?

ちなみに扁額とは、主に寺院や神社の門や鳥居の上部中央に掲げられた「文字が書かれた看板」のことです。

実は、この厳島神社の大鳥居の扁額には、以下のような謎の文字が刻まれています。

  • 海側には「嚴嶋神社
  • 社殿側には「伊都岐島神社

厳島神社の大鳥居の秘密「裏表で異なる扁額(へんがく)の文字」↑扁額を下から見上げた所

海側の「嚴嶋神社」は「厳島神社」のことなので容易に理解ができます。

しかし、社殿側の「伊都岐島神社」とは、どういった意味があるのでしょうか?

「伊都岐島」の文字の意味・由来と読み方

厳島神社の大鳥居・「伊都岐島」の文字の意味・由来と読み方

まず「伊都岐島」の読み方ですが、これは、「伊都岐(いつき)島」と読みます。

「伊都岐島」の文字の由来や意味は以下のようになります。

厳島は古来、「神を斎(かみをいつ)きまつる島」という意味で「伊都岐(いつき)島」と呼ばれていました。

意味は「神を崇めたてて祀る島=島そのものが御神体」となります。

これは、厳島神社の御祭神の宗像三女神の1柱である「”伊都岐島”=”市寸島”比売命(”いちきしま”びめのみこと)」に由来するものです。

「市寸島比売命」と言えば神仏分離令が発せられる以前では、仏教の「弁財天(べんざいてん)」、いわゆる弁天様と同一視されていた神様でもあります。

扁額の文字が変わった時期

実はこの大鳥居の扁額の文字は時代を経る過程で推移していることは、あまり多くの方に知られていません。

これを時代の変遷で示すと次のようになります。

平安時代の創建(再建)当時

海側に「伊都岐島大明神」のみ

鎌倉時代

海側に「伊都岐島大明神」のみ

室町時代

社殿側に「伊都岐島大明神」、海側に「厳島大明神」

※注釈※室町時代に「伊都岐島大明神」が社殿側に移動。新たに海側に「厳島大明神」の額が据えられている。

江戸時代末期

社殿側に「伊都岐島大明神」、海側に「厳島大明神」

江戸時代末期以降、現代まで

社殿側に「伊都岐島神社」、海側に「嚴嶋神社」

※注釈※江戸時代に「伊都岐島大明神」→「伊都岐島神社」。「厳島大明神」→「嚴嶋神社」に改められている。なお、扁額の位置自体は室町時代から変わっていない。

現在の神社の鳥居を見れば分かりますが、鳥居の扁額は元来、内側(社殿側)には設けず、外側に向けて参拝に訪れる者に見えるように掲げるのが通例です。

この事実を踏まえると、清盛公が大鳥居を造営した当時は海側のみに「伊都岐島大明神」の扁額が掲げられていたことが想像につきます。

以降、鎌倉時代を経て室町時代まで海側のみに「伊都岐島大明神」の扁額が掲げられていますが、室町時代から江戸時代末期にかけて扁額の位置が大幅に変更され、海側にあった「伊都岐島大明神」の扁額は社殿側に移動され、代わりに海側には「厳島大明神」の扁額が掲げられています。

江戸時代末期以降、現代にかけてさらに扁額の”大明神”の文字が”神社”へ改められ、社殿側に「伊都岐島神社」、海側に「嚴嶋神社」へと扁額が変更されています。

”伊都岐”の文字が清盛創建(再建)説の証拠?!

ところで、お気づきなった方もいると思いますが、社殿側の神社名”伊都岐”は少し変わった漢字の使い方がされています。これは一見すると「漢字の当て字」にもみえます。

これは「万葉仮名(まんようがな」という文字で書かれており、「万葉仮名」とは、「あ」「い」「う」など1音ずつに漢字を当てたものです。

万葉仮名は平安時代を境に使用されなくなり、以降、現在に至っては「平仮名(ひらがな)」・「片仮名(カタカナ)」が日常的に使用されるようになっています。

すなわち、この扁額に書かれた文字をもってしても清盛公が平安時代にこの厳島神社を創建したという例証の一つと素敵にいえる。




江戸時代の大鳥居の扁額文字を示す文献があった!!

江戸時代の「浮世絵師・歌川広重」が、1853年(嘉永6年)に描いた「六十余州名所図会」の中の「安芸 厳島祭礼之図」に、ぬぃあんとぉぅっ!厳島神社の大鳥居の扁額が描かれています。

そこには「伊都岐島大明神」の文字があります。

江戸時代の「浮世絵師・歌川広重」が、嘉永6年(1853年)に描いた「六十余州名所図会」の中の「安芸 厳島祭礼之図」に、鳥居の扁額が描かれて

上述したように江戸時代の扁額は現在と少し異なり次のような文字が書かれていました。

  • 海側には「嚴嶋大明神
  • 社殿側には「伊都岐島大明神

江戸時代の扁額を見ると海側・社殿側の扁額のいずれもにも現在の”神社”ではなく、”大明神”と書かれているのが分かります。

これは上述したように現在の「嚴嶋神社」という文字は1300年から1400年代(鎌倉時代後期〜室町時代)以降になってから書かれたものだとされ、それ以前の平安時代、つまり平清盛が再建(創建)した当時の扁額には海側に「伊都岐島大明神」と書かれた扁額のみが掲げられていただけだと云われています。

厳島神社・大鳥居の「扁額」を書いたのはいったい誰?

厳島神社・大鳥居の「扁額」を書いたのはいったい誰?普段は見ることが出来ないのですが、扁額の裏には「明治7年甲戌四月二品熾仁親王謹書」と記されているようです。

扁額は2つとも「江戸時代後期~明治時代」の皇族である「有栖川熾仁(ありすがわ たるひと)親王」による染筆です。

実はこの扁額は、有栖川親王が1875年(明治8年)に奉納されたものなのだそうです。

有栖川宮家(ありすがわのみやけ)」の歴代の当主は書道・歌道に秀で、有栖川熾仁親王は9代目当主にあたります。

戊辰戦争や西南戦争、日清戦争の指揮官を務めた人物ですが、皇女・和宮(かずのみや)の元婚約者としても知られています。

この和宮との婚約は、時の政治情勢によって後に反故(中止)になりました。

厳島神社の大鳥居の「月と太陽の紋章の意味・由来」

大鳥居の「笠木(大棟)」の両はしの「月」と「太陽」の紋章の謎

厳島神社の大鳥居の秘密「建築構造と月と太陽の紋章の意味・由来・歴史」 (2)厳島神社の大鳥居の秘密「建築構造と月と太陽の紋章の意味・由来・歴史」厳島神社の大鳥居の「笠木(大棟)」両はしには、社殿からみて右側(東側)には「太陽の紋章」が刻まれています。

また、逆に西側(左側)には「月の紋章」があります。

これは「陰陽道の理」を指し示すといいます。

陰陽道とは?

陰陽道とは、森羅万象の理に則り、方角や月・太陽・星などの位置などを総合的に見て、物事の良し悪しを見極めるために用いられた、中国大陸から日本へ伝来した思想の1つです。

この陰陽道は名前こそは違いますが、現代でも「占い」と言う形で伝承されています。

厳島神社の大鳥居に「月」と「太陽」の紋章が刻まれている理由

厳島神社の大鳥居に月と太陽の紋章が刻まれている理由は、以下の通りです。

古来、「北東は鬼門である」と考えられています。

これを陰陽道に則って、大鳥居の東側(社殿からみて右側)に太陽の紋を刻むことで、「鬼門の効力を封じている」と言われています。

陰陽道の理を用いた場合、太陽があれば月が対極の位置に存在しますので、厳島神社の大鳥居の場合も、太陽の対極に「月」を刻んだものだと思われます。

厳島神社の大鳥居にお金(お賽銭・小銭)を挟む理由と「どんなご利益があるの?」

厳島神社へ参拝に行かれて、大鳥居を見られた方なら分かると思いますが、大鳥居の柱には「お金(小銭)」がいっぱいササっています。

厳島神社の大鳥居にお金(お賽銭・小銭)を挟む理由と「どんなご利益があるの?」これは、干潮の時(海水がない陸続きの状態の時)に、参拝客がご利益を求めて大鳥居の柱のメクれ上がった朱塗りの樹脂コーティングの間に小銭を挟むからです。

しかし、厳島神社の神職の方、曰く「鳥居にお金(小銭・お賽銭)を挟むと柱が傷み木が腐ってしまいますので、やめて欲しい」とのことです。

現在の厳島神社の大鳥居は重要文化財の指定を受けていますので、簡単に建て替えることはできません。また、上述したように柱を腐食から保護するために「合成樹脂」が表面に塗られてコーティングされています。

お金(小銭)をはさむということは、鳥居を守っている合成樹脂を剥がすようなものです。

ちなみに鳥居に小銭をはさんで肝心のご利益があるのか?・・なのですが、厳島神社の方に聞いたらこのように言っておられました。

「ご利益があるかどうかはわかりません。」

「しかし、神聖な柱に傷を付けているのと同じなので、そう考えるとご利益があるというよりは、むしろバチが当ると思われます。」

「鳥居が傷みますので、鳥居にお金(小銭・お賽銭)を挟むのは、お控えください」

つまり、大鳥居にお金を挟んでも、ご利益どころか逆にバチが当たってしまうかもしれないということですので、お金を挟むのは控えておきましょう。




大鳥居が腐食する原因は虫??

上述ではお金(コイン)を挟むことにより、腐食の進行が早まるとお伝えしましたが、実際のところ、なんと!「キクイムシ」や「フナクイムシ」の蝕害により穴ボコが開けられていることが腐食の原因になるとのことです。

「キクイムシ」は、体長3ミリ〜4ミリほどの小さな甲虫です。元来、日本には生息しない虫でしたが、およそ江戸時代後期あたりに海外からの荷物などにくっついて日本へ渡来してきたと考えられています。

⬆️噂のキクイムシ

「フナクイムシ」とは、体長30㎝、幅約5ミリ〜8ミリくらいの二枚貝の一種です。海中の木材を食べ進むことで直径5ミリ〜8ミリの穴ボコが約60㎝〜1mほどの深さまで食べ進みます。 ⬆️噂の噂のフナクイムシ

文化庁の調査によると「キクイムシ」の被害が深刻とのことです。実際に大鳥居だけではなく、本殿や社殿群も「キクイムシ」による深刻な蝕害がもたらされているようです。

大鳥居が見えなくなる?!大鳥居の工事内容とは?

全体工事の期間

2019年(令和元年)6月17日〜未定(当初の予定では2020年8月)

西の松原から大鳥居への桟橋(仮設通路)

2019年(令和元年)8月26日(花火大会の後)〜未定

大鳥居全体の足場

2019年(令和元年)7月20日〜未定

足元樹脂コーティング工事

2019年(令和元年)6月17日〜2019年(令和元年)7月12日

今回の全体工事期間は未定となっていますが、工事期間を可能な限り短縮するため、工事用の仮設桟橋が設置されます。

さらに鳥居全体に素屋根のようなシートが被せられますので、見えづらくなります。(遠方からでは見えない)

⬆️満ち潮時

⬆️干潮時

具体的な工事内容としては、経年劣化による以下のような鳥居の補強工事が実施される予定です。

屋根の葺き替え

屋根の葺替えは25年ぶりに執り行われます。

檜皮葺(ひわだぶき)大屋根、袖柱の上の屋根。

塗装の塗り替え

塗装の塗り替えは15年ぶりに執り行われます。

旧塗装を法令に基づいて掻き落とし処分を行い、朱色塗装(アクリル有機顔料塗装)とします。

扁額(へんがく)の補修

扁額の補修は11年ぶりに執り行われます。

全体的に修理を実施します。

部分的破損調査

自費調査によって、東西主柱の部分的破損調査を行います。東主柱では北面袖貫の上に腐朽による穴が発見されています。西主柱では金輪継つぎ(かなわつぎ)補強の鉄金物の錆(サビ)による破損が確認されています。

以上の調査結果から、このたびの工事ではまず、全体の破損調査(レジストグラフ調査、簡易X線調査、レーダー探査、内視鏡調査等々)と構造の診断が行われます。

島木・笠木に関しては内部の状況調査も併せて実施されます。

これらの診断結果によって工事の方法(補修や補強方法)や段取りが決定されます。

仮設桟橋の設置

仮設桟橋は主に工事車両が出入りしやすくなる目的で設置されます。

それで・・鳥居を見ることができるのか?

鳥居を見ることはできますが、シートが覆いかぶせられることにより、かなり見えづらくなることだけはご承知ください。

ただ、遠方からはまったくと言って良いほど見えませんが干潮時は近づいて見ることができます。

工事期間中に大鳥居を観たいのであれば、代わりに大鳥居の模型が展示される8月に新設される予定の観光施設へ訪れてみてください。ウフ

大鳥居の場所(地図)

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