宮島・厳島神社「摂社・大元神社」【重要文化財】
創建年
- 593年(推古天皇元年/飛鳥時代)
再建年
- 1443年(嘉吉3年)※内陣
- 1523年(大永3年/室町時代)
建築様式(造り)
- 三間社流造
屋根の造り
- 板葺(こけら葺)
※大元葺き
重要文化財指定年月日
- 1949年(昭和24年)2月18日
御祭神
- 保食神
- 佐伯鞍職
- 国之常立神(国底立尊)
- 大山祇神
社格
- 宮島・厳島神社「境外・摂社」
ご利益
- 国土の安泰
- 一族繁栄・一家安泰
- 食あたり・水難・遭難のご加護
宮島・大元神社の読み方
「大元神社」の読み方は「おおもとじんじゃ」と読みます。
「大元」の名前の由来
大元神社の「大元」の名前の意味は、古来、厳島神社と同じ頃に創建された「土地神を祀った大元の社」と考えられていることから、名前に”大元”が付されているとも云われます。
そのほかの説としては、『現在の厳島神社の元宮(旧本殿)があった場所』という意味合いから「大元」が付され「大元神社」と呼ばれているいるとも云われます。
以上のことから察すれるように清盛公が創建(再建)した厳島神社よりも以前から当地にある古社です。
かつては「大伴社」とも呼ばれた??
この大元神社は、かつては「大伴社(おおともしゃ)」とも呼ばれ、これが時代を下る過程で訛って「大伴→大元」になったという説があります。
「大伴」の名前の由来は後述していますが、かつて佐伯鞍職の佐伯氏は大伴 室屋(おおとも の むろや)を始祖とする大伴氏の氏族であったとされ、その大伴氏を祀った社であったことから「大伴」と付されたと推察されています。
ちなみのこの大伴氏は天孫降臨の際、彦火瓊々杵尊(ににぎのみこと)を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を始祖とする氏族であり、大伴室屋の御代の時に大伴氏から分裂した神別氏族(しんべつしぞく/=天津神・国津神の子孫のこと)と伝えられています。
宮島・大元神社の歴史・由来
宮島・大元神社は、宮島「大元公園」内に位置する神社です。
大元公園は広大な敷地を持つ公園であり、その入口付近に大元神社が建っています。
大元神社の創建はなんと!厳島神社よりも古いものとして伝来されていますが、詳しい創建年は不明とされております。
現在はもうありませんが、かつては厳島神社を創建した厳島神社初代神職でもある「佐伯鞍職(さえきくらもと)」を祀る神社であったとされ、社殿内にて佐伯鞍職を模した神像が安置されていたとされる記録が残されています。
この神像のその後の行方は不詳。現在、宮島対岸の大頭神社(おおがしらじんじゃ)で祭祀される御祭神の佐伯鞍職命(さえきくらんどのみこと)は、この大元神社から遷(うつ)されたものだと伝えられています。
なお、現今の大元神社の本殿は1949年(昭和24年)2月18日に国の重要文化財の指定を受けています。
宮島・大元神社の御朱印の種類・初穂料(値段)
大元神社には残念ながら御朱印はありません。付近では厳島神社はじめ、千畳閣、大願寺、大聖院などで授与されています。宮島の御朱印に関しては以下のページをご覧ください。
関連記事:【期間限定はあるのか?】広島県 宮島・厳島神社の御朱印の種類・値段・混雑状況(待ち時間・並ぶ人数)」
関連記事:宮島・千畳閣(豊国神社)の歴史・御朱印・見どころ(特徴・建築様式)など
宮島・大元神社の「御祭神」
保食神
大元神社に御祭神の「保食神」とは、「うけもちのかみ」と読み、この神様は神宮(伊勢)の外宮で祭祀されている「豊受大御神」のことであり、これは京都・伏見稲荷大社の主祭神「稲荷大神(宇迦之御魂神)」のことをも指します。
すなわち「五穀豊穣」や「食べ物全般」を司る神様です。
佐伯鞍職
「佐伯鞍職」とは、「さえきくらもと」と読み、厳島神社の初代の神主であり、厳島神社を創建した人物でもあります。
上述したようにかつては大伴氏の氏族でした。
国之常立神(国底立尊)
「国之常立神」は「くにのとこたちのかみ」と読み、日本書紀では「国底立尊(くにのそこたちのみこと)」と呼称される神様です。
現在、国之常立神を祀る神社は少なく、そう考えると大元神社は「非常にレアな神様」をお祀していると言えます。
国之常立神とは、すべての存在の根源である「混沌(こんとん)」から、ある日、突然生まれた神様です。
「混沌」とは、「宇宙」や「宇宙に煌く美しい星々たち」や「地球」すら存在しない、「すべてが生まれる前の混ざり合った状態」のことを指します。
やがて、その混沌から「清浄な物」と「濁った物」に分かれはじめ、清浄な物は「天」となり、濁った物は「地」となりました。
この時に「地」の創造神として最初に生まれたのが「国之常立神(国底立尊)」です。
国之常立神の「常(とこ)」とは「床(とこ)」とも読まれ、「国の床」や「国の底」と解釈されます。
したがって、大地の存在そのものを意味し、本来であれば「国津神の頂点に君臨する神」となり、八百万の神々を従える「地上における最高神」と言う位置づけとなります。
しかし実態が不明であることから、現在では国津神を統べる大神は出雲大社に鎮座される「大国主大神」とされています。
尚、国之常立神と相対する神として、「天」を司る「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」がいます。
大山祇神
「大山祇神」は、ご存知の方も多いと思われますが「山の神様」で有名です。
厳島神社からそれほど遠くない愛媛県今治市大三島(瀬戸内海)にある「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」に鎮座される神様です。
「大山祇神社」は瀬戸内海の鎮守として山の神の他、海の神様の側面も併せ持っています。
また古来、武士から「勝運の神様」としても厚い崇敬が寄せられていましたので、勝負運に関してのご利益があります。
宮島・大元神社の建築様式(造り)
中国地方最古の三間社流造り
ちょっと大元神社の組物に注目してみると、屋根の荷重を受ける蟇股(かえるまた)や木鼻の渦(うず)模様など、平安時代から室町時代の特徴を示しています。
現在までの通説では1523年(大永3年/室町時代)に再建されたという説が濃厚となっていますが、上記のような細部に見る建築様式から1443年(嘉吉3年)に再建されたとも考えられています。
1443年の再建説が唱えられる理由は、大元神社の内陣が1443年に造り替えられているからです。
これが事実だとすれば中国地方最古の歴史を持った三間社流造の社殿となります。
「三間社流造」とは?
ちなみに三間社流造とは、次のような条件を持つ殿舎のことを指します。
- 殿舎を横から見た時に屋根の形が”への字”型になっている
- 殿舎を正面から見た時に柱が4本ある
柱が4本あるということは柱の間が3つ存在することになります。
古の幻の技法「大元葺き」
宮島・大元神社には、実は特有の建築様式が存在し、その造りとは「屋根」に表現されています。
宮島・大元神社の本殿の屋根はなんと!「大元葺き」と呼称される独特の手法で葺かれており、これが重要文化財に登録されています。
「大元葺き」とは、6枚重ねにした杮板(こけらいた=薄板)を3段で一区切りとして「継ぎ目に”段”を入れた板葺きの技法」のことです。
このような珍しい屋根を葺くのに技術的には難しそうに見えますが、実は通例となる「こけら葺き」ほど手間がかからず格式は低いとされています。
鎌倉時代から室町時代あたりの絵巻物にも登場していることから、これらの時代に流行した葺き方と言えます。
しかし、時代を経る過程でこのような段葺き屋根は忘れ去られ、こけら葺きや瓦葺きへと葺き替えられています。それはこの大元神社も例外ではなく、昭和に行われた修理の際に旧材が見つかってから、現在のように段葺き屋根が復原されています。
無論の事、このような古式の屋根を持つ神社は、日本に数ある神社の中でもここ大元神社だけです。まさに大元神社の代表的な見どころと言えます。ウフ
宮島・大元神社のイベント行事
百手祭(御弓神事)
百手祭は「ももてさい」と読み、例年1月20日に大元神社で開催される神事です。
百手とは、200本の矢を用いて2本の矢を1手(回)、合計・百手で的を射ると言う意味です。
的には「甲(こう)」・「乙(おつ)」・「ム(なし)」とか書かれた不思議な文字が書かれています。
この文字は組み合わせると「鬼」と言う字に似せた文字となり、すなわちこれを無理やり「鬼」と読むそうです。
鬼とする意味とは、喧嘩しそうになっても年の初めから縁起が悪いので、矢を射ることで両者の心の中に棲まう「鬼の心を追い出す」と言った意味合いになるそうです。
つまりは「寛大の心を持って喧嘩はしないでおこう」と言う解釈になります。
- 開催日:例年1月20日の午前11時から
- 開催場所:宮島・大元神社境内
御島巡式(御鳥喰式)
大元神社の拝殿には「御島巡」と呼称される額縁が奉納されていますが、「御島巡」とは例年・5月15日に執り行われる厳島神社の神事です。
厳島神社に伝わる伝記によると、厳島神社の御祭神である伊都岐島神は厳島神社を見つける前に「自らが鎮座する場所」を探しまわったそうです。
その後、1羽のカラスが現れて神が乗る船を先導し、現在の厳島神社の場所へ案内したそうです。
そしてこの時に「宮島内の9箇所」を巡ったと伝わる由来から、例年・5月15には厳島神社の神職の方が「御師船」と呼称される船へ乗船し、上記の9箇所を巡拝します。
現在では、これら9箇所は厳島神社の末社格を持つ神社となっており、その最後の巡拝先となるのが、ここ大元神社となります。
- 開催日:例年5月15日
- 開催場所:宮島・大元神社境内、他宮島内8箇所の神社
大元神社の見所(見どころ)
「大元公園」【厳島八景】
大元神社の境内には、上述の通り「大元公園」と呼称される公園の入口付近に位置しています。
大元公園と言えば、宮島・「弥山(みせん)」へと続く登山コースの入口でもあります。
この大元公園にはたくさんの木々が群生しており、その中には「桜」が自生しています。
例年、春になると「桜」たちが満開の花を実らせる姿は「厳島八景」の1つにも数えられています。
その他、樹齢数100年の樹齢を持つ「モミの大木」が海岸近くまで群生しており、この様相は日本中でもなかなかお目にかかることのできない稀有な場所として知られています。
牛石
大元公園の入口前の道路を挟んだ浜辺側にある「牛の形をした石」です。
牛石と呼称される理由とは、単純に石の形が牛に似ているからです。
牛石は、満潮時の潮の具合によっては、海水の中に浸かってしまうそうです。
また、牛石は古来、宮島の名石の1つとして数えられてきた歴史ある石です。
大元浦
「大元浦(おおもとうら)」は厳島合戦の古戦場の1つに数えられる場所です。
1554年(弘治元年)もと大内家家臣・陶晴賢は、毛利征伐のために山口県の岩国から20000もの大軍を率いて大元公園の海岸・「大元浦(おおもとうら)」へ上陸します。
陶軍は上陸後、多宝塔や五重塔へも進軍しますが、毛利元就の奇襲を受けて再び大元公園まで引き下がることになります。
血仏池(血佛池)
大元公園の中には、「血仏池(血佛池)」と「血佛」と記載された石塔があります。
「血仏池(血佛池)」と「石塔」はセットで考えることでき、いずれも厳島合戦に由来しています。
「血仏池(血佛池)」の名前の由来は、厳島合戦で陶軍の戦死者が多く、池水の色が赤色からしばらく変わることがなかったそうです。
そんな理由から「血佛(ちぼとけ)」と言う名前が付され、池の底から血が湧き出て来ているとも云われたそうです。
供養塔
一方、そんな陶軍の死者を祀るために地元の方々が建てたのが石製の「供養塔」です。
1658年(明暦4年)に造立されたものです。
厳島神社から宮島・大元神社へのアクセス(行き方)
厳島神社のに西回廊の出口から大元神社へは、徒歩でも充分にアクセスが可能です。
所要時間は徒歩約15分程度です。
厳島神社からの行き方としては、「宮島歴史民族資料館」や「宮島水族館」の方向へ向かってひたすら直進します。
宮島水族館を過ぎた後は、「国民宿舎・杜の宿」が見え、これを直進するとたくさんの石燈籠が見えてきます。
その奥に「鳥居」が見えてきますのでこれが入口となります。
鳥居の向かい側に「大元浦」があり「左には休憩所」と「右に牛石」があります。
- 厳島神社からの徒歩での所要時間:約15分
- 厳島神社からの距離:約450m
宮島・大元公園のINFO
- 住所:廿日市市 宮島町大元
- TEL:0829-44-2011(宮島観光協会)
- FAX番号:0829-44-0066(宮島観光協会)
終わりに・・
大元公園から弥山へ登山される際は、是非!大元神社へお参りされてから登山されるのがよろしいかと思われます。
「山での遭難」や「食あたり」のご加護をいただくことができます。
大切な家族が待つ我が家へ無事に帰れることをシッカリとお祈りしてください。お賽銭となる五円玉をお忘れなく。
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