宮島・厳島神社「康頼燈籠」
造営年
- 1186年(文治2年)頃※鎌倉時代
厳島神社・「康頼燈籠」の読み方
「康頼燈籠」は「やすよりとうろう」と呼称します。
「康頼燈籠」の名前の由来
この灯籠の奉納者である「平 康頼」の名前に因む。
厳島神社・康頼燈籠の歴史
「康頼燈籠」は、現在の宮島島内において最古の燈籠と云われています。
康頼燈籠が厳島神社の境内にある理由は、「鬼界島」に流罪となって配流されていた「平 康頼(たいらのやすより)」が、赦免(しゃめん)されたことによって厳島神社の神々に恩を感じて燈籠を奉納したと伝わっています。
平 康頼が流罪になって木札1000枚を流した?理由と配流先とは??
1177年安元3年6月、京都・東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の山荘にて、平康頼と他に藤原成経と僧侶・俊寛の有力者とで「平家打倒の計画」が話合われていました。後世では「鹿ヶ谷の陰謀/ししがたにのいんぼう」と呼ばれる密談です。
しかし、この会合の内容が密告者によって清盛の耳に入ることになってしまい、結果、康頼を含めた会合の出席者全員が流罪となってしまいます。
その配流先となったのが「薩摩国(現在の鹿児島県)・鬼界ヶ島(きかいがしま)」ということです。
康頼は、京の都での生活を愛おしむばかりに卒塔婆(そとば/墓の後に立てる長い木札)を、ぬぅあんとぉう!!来る日も来る日も毎日毎日、浜辺へ出向いて海へ流し続けたそうな。
するとその内の1枚が偶然にも厳島神社の現在のこの「康頼燈籠」がある場所へ流れつきます。
卒塔婆が流れ着いた頃、ちょうど厳島神社に京の都から1人の僧侶が厳島神社へ訪れていたようですが、その僧侶は偶然にも康頼の様子を見に伺う途中だったようで、その木札を見つけるなり、康頼が流した木札だと知ります。
そしてその木札を持ってそのまま京の都へとんぼ返りしたそうな。京の都では結構、騒がれたようですが、その木札に書かれた内容をみた清盛公は康頼が書いた木札だと知り、康頼をすぐさま罷免(ひめん=罪を許す)して再び都へ戻ることを許したとのことです。
ちなみにその卒塔婆に書いてあった内容とは「残してきた母親へ思い」や「反省を込めた思い」、「配流先での生活のこと」を和歌にして卒塔婆1本1本に書き連ねてあったそうです。
その数も1枚だけではなく、なんとぉぅ!1000枚にものぼったそうな。
ただし、実際に「鬼界ヶ島」と言う島は存在せず、現在では「鹿児島県・薩南諸島」うちの「硫黄島」か「喜界島」のいずれかだと考えられています。
これらの島々には僧侶・俊寛の墓や銅像があることから、どの島が配流先なのかは現代に至っては定かではありません。
しかし2つのうち、「喜界島」の方が有力視されおり、喜界島にある「俊寛の墓の中の遺骨」を調査したところ、なんと!島外の「かなり身分の高い人物の遺骨」であることが確認されたそうです。
この話の内容については、当サイトの以下の別ページ「厳島神社・卒塔婆石」でもご紹介しています。
厳島神社・康頼燈籠の場所(地図)
厳島神社・康頼燈籠は厳島神社の境内の「鏡の池」の付近(揚水橋の足元のあたり)にあります。
上述の卒塔婆石と共に並ぶように位置しています。
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