宮島・厳島神社「卒塔婆石」
造営年
- 1150年(久安6年)から1200年(正治2年)頃※鎌倉時代後期
厳島神社・「卒塔婆石」の読み方
「卒塔婆石」は「そとうばいし」と呼称します。
厳島神社「卒塔婆石」の歴史・由来
卒塔婆とは、仏塔やお墓の後ろに建てる「木製の木柱(棒)」のことを指します。
1177年安元3年6月、後白河法皇の付き人であった中原康頼は、平の姓を賜り平家一門となって「平 康頼(たいらのやすより)」と名乗り、めでたく平家一門格に迎え入れられることになります。
しかし、時を経て主家であった平家に不信感を抱き、京都・東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の山荘にて主家である平家討伐の企てを当時の中納言・藤原成親(ふじわらのなりちか)と密談します。
その密談を繰り返すうちに、やがてこれが主君である平清盛の耳に入り、清盛から流罪の刑を言い渡されてしまいます。
流罪地となった「薩摩国(鹿児島県)・鬼界ヶ島」では本土(都)での日々を思い出し、死人のように只々、むなしく1日を過ごす毎日でした。
そこで何とか本土へ再び帰り咲くためにと康頼は一計を案じ、卒塔婆となる長い木札を1000本用意します。
その卒塔婆に「残してきた母親へ思い」や「反省を込めた思い」、「配流先での生活のこと」を和歌にして卒塔婆1本1本に書き連ねました。そして、潮の流れを利用して本土へ流れ着くことを祈ったのです。
そして、なぁあんとぉうっ!願い叶って、そのうちの1本が厳島神社境内の鏡の池の中に流れ着き、その卒塔婆の内容が清盛が座する都へ持たらされることになります。
その内容を知った清盛は康頼を無罪放免にして帰京を許すのです。
尚、この時の和歌は卒塔婆に「二首(2つ)」書かれており、後世では「康頼・百人一首」としても語り継がれており、流れ着いたとされる卒塔婆の和歌は以下のような内容になります。
「薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風」
訳:薩摩の沖合の小島に私がいると親に告げよ。いくつも容姿を変えながら進む潮風よ。
「思ひやれしばしとおもふ旅だにも猶ふるさとは恋しきものを」
訳:思いは馳せる。しばしの間と思った旅でさえ相も変わらず故郷は恋しいものよ。..フッ
厳島神社・卒塔婆石の場所(地図)
後方には「康頼燈籠」があります。
尚、上記の康頼燈籠の関しては当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。
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