宮島・弥山「三鬼堂(大聖院)」

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宮島・弥山「三鬼堂(大聖院)」

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創建年

  • 不明
  • 推定:806年(大同元年)※現在のお堂は明治時代の造営
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 木造平屋建て
  • 向拝付き
  • 平入
屋根の造り

  • 本瓦葺き
御祭神

  • 時眉鬼神
  • 追帳鬼神
  • 魔羅鬼神
発願者

  • 弘法大師・空海

「三鬼堂」の読み方

弥山や麓の大聖院の境内には、難しい漢字の表記で読みにくいお堂や仏像が安置されていますが、三鬼堂は「さんきどう」と呼称します。


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弥山・三鬼堂の歴史・由来

真言密教の修法の1つに、山岳仏教と言うものがあります。

山岳仏教はインドの須弥山がもととなっており、須弥山とはインドの南の海を超えた先にある天をも貫くほどの山で菩薩や仏様が暮らす山です。

山岳仏教は山を敬い山を開くことによって、悟りの境地に辿り着けるとして信仰が広まり、その代表的な例となるのが山伏です。

一方、日本古来からの山岳信仰には「山の神」がおり、いつにしか先述の山岳仏教と山岳信仰が混ざり合い、山を崇拝する信仰が急激に広まりました。

現在の寺院の「山号」とは、これらの信仰の一環です。

そんな由来から大師・空海の手によって、弥山の鎮守として真言密教の仏法の守護神である三鬼大権現を麓の宮島・大聖院から勧請して当地にて祭祀するに至っています。

大師・空海の創建以後は、平清盛によって1168年(仁安3年)厳島神社が造営された際、清盛自身が三鬼堂を厳島神社の奥宮と定めて厳島神社の鎮守と定めています。

現在の三鬼堂は弥山本堂の付近に位置していますが、これは明治時代初頭の神仏分離令以後にに造営されたもので、本来の三鬼堂は現在の御山神社の場所にありました。

3人の天狗と三鬼堂の3鬼神

三鬼堂は日本でも類を見ない、悪の象徴ともされる「鬼」が祀られています。

実は江戸時代の弥山は仁王門の奥には天狗が出没すると言うことで午後2時以降の入山は禁止されていました。

この天狗と言うのが直接三鬼堂(三鬼大権現)のと結びついているのかは定かではありませんが、江戸時代の安芸国(広島県)・広島藩主であった福島正則は、弥山に山伏の格好をした天狗が出ると言うことで天狗退治に向かったそうです。

しかし、天狗の圧倒的な力を知った正則は、天狗を前に完全に怖気づいてしまい、腰が抜けて膝を落としてしまいます。

そこへ厳島神社の神主がスッと現れて天狗を説得せしめ、正則はその後スグに三鬼堂を建て直し、3人の天狗を手厚く崇拝しました。

その様子を見た3人の天狗は以後、二度と弥山に現れなくなったそうです。

ちなみに三鬼堂は福島正則の他にも、初代総理大臣の伊藤博文も三鬼神に対して厚い信仰を寄せていたようです。

その信仰心を表すかのように、現在の三鬼堂には伊藤博文、直筆の「扁額(へんがく)」が掲げられています。

その他、現在の弥山へ続く山道を整備したのも伊藤博文による功績(寄進)であることはあまり知られていません。

「三鬼大権現」

追帳鬼神(ついちょうきしん)

「福徳」を司る鬼神。本地仏は「大日如来」

時眉鬼神(じびきしん)

「知恵」を司る鬼神。本地仏は「虚空蔵菩薩」

魔羅鬼神(まらきしん)

「降伏」を司る鬼神。本地仏は「不動明王」

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